『悔恨の果てに』1〈【プロローグ】~〉は、こちらから
2020.3.11 更新 〈【第七章】【第八章】【第九章】~〉 松下真美 著
【第七章】 秘密の抜け道
ミリーがアルダークのところに来て、二か月が過ぎた。
季節は初夏、五月の中旬頃であった。
ミリーは働き者で、仕事をてきぱきと、こなしてくれる。そして仕事の合間や食事時間には、必ずアルダークの許へ行き、話をするのであった。
昔の思い出話もするが、最近は外の世界のことも教えてくれる。
アルダークは好奇心旺盛で、いろんなことを聞いてくる。
十年間幽閉されているので、外の話は未知の世界のことだ。しかし、同時に外へ出られない、もう出ることも出来ない自分を恨めしく思い、継母、ロザーヌへの恨みも増大する。
(やはり、あの女だけは許さない! 絶対にこの手で復讐してやる!)
アルダークの心からは、今でも『復讐』の二文字は消えていない。心は闇に閉ざされたままだった。
それでもミリーの笑顔を見ると、アルダークの心に光が差し込んでくる。しかし現状は良くなっていなかった。徐々に光の量は増えて行っているが、それでも闇は消えることはなかった。
(このままではいけない)
ミリーは、なんとか打開策を見つけたかったが、それは簡単ではなかった。
(なんとかしなくては。でも、どうしたら?)
毎日、アルダークと顔を合わすたびに思っている。
そんなある日、ミリーは、書斎の真下の部屋で片付けをしていた。
その部屋は客間ではなく、宝物庫だ。しかし別荘なので高価なものはなく、半ば物置として使っている。
ミリーは、奥の壁前に置かれた大きなブロンズ像を拭いていた。
そこには何体も置かれていて、すべて埃っぽかった。
「この裏を掃きたいのよ」
ブロンズ像を抱えようと頑張るけれど、到底無理だ。
「よし」
ミリーは、ブロンズ像を手前のものから少しずつ押してずらすことにした。
少しずつでも動かすと、その下や裏を掃けるし、拭ける。少しずつだが、部屋が空気ごとキレイになっていく感じがして嬉しかった。
「それにしても、すごいホコリ……。はやく終わらせよう」
そのときだった。
一息ついたミリーが、隅の壁に手を突き、立ち上がろうとした。
「きゃあああっ」
そのときその横に続く交差した隣の壁が、突然左右に開いたのだ。
「!」
ミリーは固まってしまった。
「な、なに」
なんと宝物庫の奥の壁は、隠し扉だったのである。
「な、なに……こんな、おとぎ話みたいなこと……。本当に……?」
恐る恐る近づくと、地下へ続く階段がついていた。
「よし!」
ミリーはランプを持って階段を降りていくことにした。
途中で扉が閉まったら……。そう思ってもみたが、幸いそれはなかった。
階段を降りるとすぐに横に続く通路があった。
高さは十分にある。大人の男性でもゆうに通れる。
「でも……」
狭い。
二人並んで歩くことはできそうもない程度の広さしかなかった。
しばらく歩くと突き当たったところに、今度は昇りの階段があった。
その階段をゆっくりと昇っていくと、最後は木製の扉がある。
少し緊張したが、その扉はなんの仕掛けもなく、楽に開いた。
「ここは?」
出たところは屋敷の外。
正確には、屋敷の裏手にある原野の真ん中だった。
「こんなところが出口だったなんて……」
この通路は、おそらく避難用の通路だわ。
咄嗟に、ミリーの脳裏に浮かんだのはアルダークのことだった。
(この通路を使えば、門番に気兼ねなく行き来できる)
ミリーは興奮状態だった。
ここからの出入りなら、アルダークの大事な人も別荘に招き入れることが出来る。
アルダークの闇を晴らすことが出来る。
踊る心を抑えながら、ミリーは元の通路を戻っていった。
隠し扉のスイッチと呼べるものは、物置となっている宝物庫の壁だけのようだった。
それならば、出るときは隠し扉は開いたままにしておくことだ。
帰ってきて壁を閉じれば元通りになる。普段の屋敷内は、私たちだけだ。見つからないだろう。
(これは、神様が与えてくださったチャンスに違いない。……神様、ありがとうございます)
ミリーは急いでアルダークののもとに戻り、この扉のことを話した。
「え? 本当に?」
アルダークも予期せぬ知らせに驚いた。
「アルダーク様、これで行方不明の妹さんと弟さんを探しに行けます。本当は、アルダーク様を外にお連れしたいけど……」
ミリーは語尾を濁した。
「ミリー、わかっている。この足では階下まで行くのも苦しい。もし本当に探してくれるのなら、妹のアルデーヌを探してほしい」
「妹さんを……。あ、弟さんは?」
「弟は……。アルナンは、正直もう生きていないかもしれないんだ。あの女……ロザーヌが言ってた。『森の奥に捨てた。夜はオオカミが出るらしい』って。弟はまだ一歳だつた。どうしてそんな残酷なことを……。だからもう生きては……」
アルダークの呼吸が早くなっていく。
過呼吸の発作を起こしたらしい。
アルダークはミリーの助けを借りて、ベッドで横になった。
「ごめんなさい、アルダーク様。わたしが余計なことを言ってしまったから……」
「ミリー……。気にしなくて……いい、から」
ミリーが来てから二か月。
この間に発作を起こしたのは、再会の日を含めてわずか三回。それまで頻繁に起こっていた発作の回数は激減している。
ミリーは、発作が起こる度、優しく背中を擦り、献身的に介護してくれる。アルダークは安心感を覚えてしまう。
(ミリーは、やっぱり天使なんだな)
アルダークの呼吸も、しばらくすると落ち着いてきた。
「ミリー、いつも……すまない」
「大丈夫です?」
「ああ、本当に、楽になったよ。ありがとう」
「そんな……。傍にいることしかできないのに……」
「ミリー、もう少しこっちに来てもらえるかな。もう少し……」
「え? どうしたの?」
ミリーが、ベッドに座ったアルダークの近くまで来ると、アルダークはミリーを抱きしめた。
「アルダーク様……」
「急にごめん。でもしばらくこのままでいてほしいんだ」
「はい」
「ミリー、こんな感情をなんていうのか、ぼくは知らなかったけど、物語や小説ではこの感情のことをこう言っていた」
「え?」
「ぼくは……ミリーのことを愛しています」
「アルダーク様……。でも、身分が違いすぎます。とてもわたしなんか……」
「身分なんか関係ない。ミリーといると、心が安らぐ。ずっと一緒にいたい。ぼくにとっては大事な天使だ。愛している。ミリーは、僕のことをどう思っている?」
「……わたしも、アルダーク様のこと……」
それ以上は言葉にならなかった。
アルダークは、そんなミリーの姿が愛しくてならない。初めて芽生えた恋愛感情に、戸惑いはあったが、ミリーを離さなかった。
翌日、ミリーは、例の階段を通って、アルダークの妹、アルデーヌを探すために街へ出た。
ヒスカール家ご用達のパン屋は、町の中央通りにある。
すぐに見つかると思っていたが、そのパン屋に該当する少女はいなかった。
(困ったわ。どこへ行けばいいのかしら)
ミリーは途方に暮れながら歩いていると、住宅街らしき道に出た。そこは来たこともない場所で、辺りを見回していると広場らしきところがあり、その中央の噴水の前で一休みすることにした。
初夏の日差しが、噴水の水にキラキラとした光を落としている。
(きれい……)
そのとき、向こうから大量のパンを抱えた少年が歩いてきた。
その少年の友達だろう同じくらいの少年たちも近づいていく。
彼らはミリーと同じくらいの年頃だった。
「おい、お前、パン屋に行くのなら、俺にも声を掛けてくれよ」
「そうは言っても、お使いを頼まれただけだし……」
「居たか? あの子は」
もう一人の友達が声をかける。初めの少年も、それを知りたがっているようだ。
「うん、いたよ。『いらっしゃいませ』と『ありがとうございました』って、声を掛けてくれた」
「幸せもんだなあ、おまえ」
「この前は洗濯中だとかで、おばさんしかいなかったもんな」
「本当にかわいいよなあ」
「『可愛い』ぐらいじゃない。すごい『美少女』だよ」
「俺のばあちゃん、『お前の嫁にどうだ』って言ってる」
「おまえじゃ無理だろ」
彼らの笑い声が響く。
はしゃぎまわるその様子は目を引いた。
「名前、知ってるか?」
「アルデーヌ……だっただろ」
(えっ?)
ミリーはどきりとした。
慌てて走り出し、その少年たちを追う。そして、彼らに声をかけると、パン屋の道を尋ねた。
こうしたミリーはパン屋までの道を知ることができたのである。
ミリーは少年たちにお礼を言って別れた。
(人違いかもしれない。……でも、確かめる価値はあるわ)
胸が弾んでいる。
ミリーの足は次第に早くなり、最後には駆け出していた。
【第八章】 アルデーヌ
ミリーは、息を切らせてパン屋に着いた。
あまり大きくはないが、お洒落な店だった。
「よし」
ミリーは決心し、店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
明るく澄んだ声に迎えられた。
そこにいたのは、金髪をツインテールに結わえた少女だった。
瞳は不快湖水のような青い色をしている。
ミリーは再び胸を高鳴らせる。
(まあ、なんて美少女なの? 女の私でさえドキドキする……。第一、アルダーク様によく似てる。……きっとこの方がアルデーヌ様だわ)
「……?」
店の美少女はミリーを見た。
「あの、お客様。……なにか?」
「あっ、いえ、失礼を……」
ミリーがしどろもどろになっていると、後ろから声が聞こえた。
「つい見とれてしまったってんだろ? おまえは本当に器量良しだからね」
大柄の厳しい顔つきの女性が置くから現れる。
「そちらさん、新顔だね。可愛いメイドさん。主人からの頼まれ物かい?」
「あっ、それでは、これとそれを三個ずつお願いします」
「アルデーヌ、会計は頼んだよ!」
「はい、おばさん」
手際よく袋に入れて、手渡してくれる。
「あの、アルデーヌさん? お願いがあるの」
お金を渡しながら、ミリーは思い切って声を掛けた。
「わたし、あなたとお友達になりたいの」
「……え?」
「あ、ごめんなさい。突然。……でも、もうひとつ、主人から頼まれたことがあるの。お店のお休みのときにお話したいと思って。……あなたと、お店のご主人に……」
そこまで言ってアルデーヌの顔を見ると、アルデーヌは目を丸くして、ミリーを見ている。
「あ、申し遅れたけど、わたし、ミリーと言います。昔からミリーと呼ばれています」
緊張で身体がカチカチになっている。
そこまで喋ったところで、ミリーは我に返り、頬をほてらせた。
(変だったかしら。変な人って思われたわよね。……ああ、失敗。喉がカラカラだわ)
ふと、アルデーヌがほほ笑んだ。
「同年代のお友達って初めてよ。嬉しいわ。お店は明日が休みなの。予定なんてないから、いつでもいいわ。いつでも来て」
仕事口調ではない。
(嫌な気持ちにならなかったってこと? 良かった)
「では、明日の午後に……」
「ええ。待ってるわ」
こうしてミリーはアルデーヌと別れた。
金髪、青い瞳、良く似た顔立ち、そして名前……。
あとは本人の記憶と店の主人の証言だけだ。
ミリーは帰途に着いた。
別荘ではアルダークが、ミリーの帰りを待っていた。
「アルダーク様。戻りました」
「おかえり、ミリー。なにか手がかりは……」
「アルダーク様」
「あっ、ごめん。今日一日だけでは、なにもわからないよな。すまない」
「アルダーク様。わたし、アルデーヌ様にお会いしました。話もしました」
「えっ」
アルダークは目を輝かせた。
「アルデーヌに会った? どこにいた?」
「ヒスカール家ご用達のパン屋ではありませんでした。もっと住宅街に入ったところの、ずっと小さなパン屋でした」
「本当に? 本当にアルデーヌなのか」
「近所では評判の看板娘さんでした」
「……アルデーヌ」
「金髪に青い目、顔立ちも良く似てて……。本人に間違いないと思います」
「本当に……。元気にしていた?」
「とても元気でした。明るく澄んだ声に優しい笑顔で、そこにいるだけで回りが明るくなってしまうような……。女のわたしが見ても、びっくりするくらい美しくて。……ちょっとときめいちゃいました」
「そうか。……元気で、笑って暮らしているんだ。良かった……」
「はい」
「ところで、ミリー」
「はい」
「アルデーヌにときめいて、ぼくにはときめかないの?」
「えっ、え? えっと……」
ミリーは顔が真っ赤になった。
昨日抱きしめられたことまで思い出す。
(どうしょう……、わたし、顔が赤くなっちゃってる……。ああ~……)
「ミリー、ごめん。そんなに困らせるつもりはなかったのだけど……」
「アルダーク様ったら……」
「うん、真面目に話すよ。アルデーヌと、次に会う約束したの?」
「はい。明日の午後に会うことにしました。早ければ、明日にでも別荘にお招きできます
「うん。よろしく頼む」
「はい」
「ミリー、色々と面倒なことを頼んですまない。もっと強い足があれば、自分で出向いていけるのに。……もどかしいものだな」
「アルダーク様、そんなこと、わたし、思ってないから。大丈夫。私を信じて」
ミリーは笑顔で応えた。
(ミリーの言葉を聞くと、安心する。この笑顔を見ると、こっちも笑顔になる)
アルダークは、そんな風に思うようになっていた。
翌日の午後、ミリーはアルデーヌのところに向かった。
アルデーヌは、昨日と同じ髪型で、服装こそ地味だが、そこはかとにじみ出る品の良さを感じる。
アルデーヌは店の前に立って、ミリーを待っていた。
「アルデーヌさーん。こんにちは」
ミリーが気づいて走り寄った。
「あ、いらっしゃい、ミリーさん」
アルデーヌの笑顔がはじけた。
本当にきれい。
「あの、わたし……『ミリー』って呼び捨てでいいので……」
「なら、わたしも、『さん』づけはやめてね」
と笑う。
「ところで、お店のご主人はいる?」
「ええ、おばさんがいるわ。……おじさんもいたけど、五年前に亡くなったの」
「あの、あとで、おばさんにも話すけど……」
「大事な話よね。……それじゃ、裏にいきましょ。店の前だと目立つから」
二人は裏に行った。
「あの、アルデーヌ。驚かないで聞いてね。じつは、わたしのご主人、アルダーク様といって、十七歳の方なの」
「えっ? 今、なんて?」
「アルダーク様……」
ミリーは、アルデーヌの様子に心躍らせた。
(知ってる? 記憶があるのだわ、きっと)
「アルダーク……。アルダークって? もしや、お兄さんが生きているの?」
「ええ。アルデーヌ。記憶があるの?」
「うっすらと……。よく遊んでくれた記憶はあるの。それに、おばさんが『大事な人の名前なら、絶対に忘れないように』って、手帳に描いてくれていたの。アルダークって……。だから」
「そうだったの」
「良かった。お兄さん。生きていてくれたの……。もう顔も覚えてないけど。でも……嬉しい」
アルデーヌの声は震えている。
見る見る涙で一杯になるその瞳に、ミリーは感動していた。
(良かった……。やっぱり覚えていてくれてたの……)
ミリーは熱くなる胸を押えて言った。
「アルデーヌ、大丈夫?」
「大丈夫。……ありがとう。ミリー。……友達になってくれたのも、すごく嬉しかった。そのうえ、お兄さんの行方までわかって……。こんなうれしいことないわ」
「アルデーヌ」
「ミリー、あなたと友達になれて、本当にうれしい……。ありがとう」
「あの……。だから、わたし、本当は主人の妹のあなたを、こんなに気安く呼ぶことに抵抗があって」
「何を言ってるの? ミリー。ミリーは友達でしょ。友達に『さん』づけも『様』づけもおかしいわ。だいいち、今のわたしは、ただのパン屋の娘よ」
「アルデーヌ」
(なんて優しい人なの)
「ところで、お兄さんのところには、いつから?」
「初めて会ったのは五歳のときなの。当時、弟妹と別れて、心細さと生活の激変から声を失っていたアルダーク様に、わたしの母が仕えていました」
「声って……。お兄さん、口がきけないの……?」
「最初の……三か月くらいだったと思う。母が教えてくれたから。でも、今は大丈夫。書斎で本が沢山落ちてきたことがあって、そのとき、口がきけるようになったの。今は普通に話しているわ」
「ああ、良かった」
「実は、アルダーク様は幽閉されているの。郊外のヒスカール子爵の別荘に。屋敷の周りを門番が見張っているので、外には出られないの」
「幽閉? なんてこと」
「最初の三年間は、仕えてたのが母だったので、アルダーク様には屋敷の中や中庭など、自由に過ごして頂いてたのだけど、母が病気になって別荘を去ることになって……」
「お母さんは、今は……?」
「今はずいぶんいいのよ。まだ自宅療養してるけど。……ありがとう、心配してくれて」
「それで、お兄さんは……?」
「わたしも二か月前に再会したばかりで……。でもすっかり変わられてた。七年間、ずっと部屋に閉じ込められていたから」
はっとするほど、アルデーヌは瞳を見開いた。
「……な……んて」
「あ……」
「話して」
「暗い表情で、呼吸困難の発作も起こすようになって……。それにずっと閉じ込められていたので、足が弱ってて、あまり歩けないようになってるの」
「え、お兄さんが?」
「始めは視力もかなり悪かったのだけど、今はもう大丈夫。でも、足の方は……。長く歩けないし、立つことも困難な状態なの」
「……なんてことなの。お兄さんが、そんなに辛い目に合ってるなんて……。わたしは普通に暮らしているのに……。お兄さん……」
アルデーヌは、また涙をこぼした。
「ごめんなさい。泣かせるつもりはなかったの。……でも、わたしもこの話を聞いたときは泣いてしまったわ」
「大丈夫よ。気にしないで続けて」
「一昨日、物置で隠し扉を見つけて……。それをアルダーク様に伝えると『妹のアルデーヌを探してほしい』っていわれたの。それで、私、探しに来て……。ここにたどり着いたのは、本当に偶然だけど、神様が導いてくれたと思うの」
「そうね。わたしもそう思う」
「あ、アルダーク様が、手紙をって……」
ミリーは手紙を渡した。
『アルデーヌへ
小さいころに分かれて、覚えてないかもしれないが、ぼくは兄のアルダークだ。ミリーが会ったと言ってたけど、元気そうでよかった。自分の足で会いに行きたい。だが足が弱っているので、出ることも出来ない。
でも会いたい。
会って話がしたい。
いつか、会えることを祈っている。
親愛なる妹、アルデーヌに。
アルダーク・ウィシュナー』
手紙にはこう書かれてあった。
「お兄さん。わたしも会いたい。話がしたい。でも、長年育ててくれたおばさんに、なんて話そうかしら。おばさん、休みをくれるかしら」
「アルデーヌ、おばさんって、どんな人?」
「そうね。口は悪いし、厳しいし……。でも、本当はすごく優しい心を持っているの」
そのとき、裏の戸が開いた。
「アルデーヌ、いつまでお客さんと外で話しているんだい? 中に入ってもらいな。お茶を淹れるから」
「あ、はーい」
店の主人であるおばさんが顔を出した。
「ミリー、中へどうぞ。おばさんのお茶。美味しいわよ。今、行きます」
アルデーヌは、ミリーを中に招き入れた。
【第九章】 アルデーヌの過去
ミリーは招かれ、家の中に入った。
しばらくすると、女店主エレナが、お茶を淹れてきた。
「しかし、アルデーヌが『友達が来るの』って言っていたが、昨日のメイドさんだったとは……。正直びっくりだよ」
「友達になるのに時間なんて関係ないわ。昨日は知らない者同士でも、お友達になれるのよ」
「そういうもんかねえ。ところで、メイドさん」
「あ、わたしミリアムと申します。皆は、ミリーと呼んでいます」
ミリーは明るく返事をする。
「じゃあ、ミリーさん、今日は仕事は? 休みってことはないだろ?」
「実は、主人から頼まれたんです。その……、ここにいるアルデーヌのことで……」
「アルデーヌ?」
「実は、アルデーヌは、わたしの主人の妹なんです」
「えっ、なんだって? アルデーヌが? 主人の妹だっていうのかい?」
「はい」
「ミリーさん、その、アンタのご主人って、いったい誰なんだい?」
「アルダーク・ウィシュナー様。ウィシュナー伯爵家のご長男でいらっしゃいます」
「は、伯爵って……。貴族さまなのかい?」
「はい」
「そ、それなら、アルデーヌは伯爵令嬢なのかい?」
「えっ、そうだったの?」
二人の会話にアルデーヌが割って入る。
「わたし、そんな家の娘だったの? 全然知らなかった」
「アルデーヌは五歳だったからね。覚えちゃいないんだろ」
エレナが言った。
「ミリーさん、アルデーヌ。……なら、わたしの質手いることと、今までのことを話そうかね。アルデーヌと出会ったときから……」
エレナは、今までのことを話し出した。
十年前、エレナは今の店と同じ場所で、夫と二人でパン屋を営んでいた。
子どもはなかったが、それなりにうまくいっていた。
ある日、エレナは街の中央まで買い物に行った。
中央通りにある大きなパン屋の横を通る。
(いつ見ても大きい店。仕方ないか、どこかの貴族様のご用達らしいし。うちのパン屋とは格が違うってことか……)
そのとき、店の中から食器が割れる音と、男の怒鳴り声が聞こえた。
「またおまえか! いったい何枚割ったら気が済むんだ!」
続いて女の子の泣き声だ。
それは、店の裏口だった。
大柄の男が、小さな女の子を、まるで猫か何かのように摘み、乱暴に外に放り投げた。
「今日という今日は許さんぞ! さあ、どうしてやろうか!」
エレナは、咄嗟にその場に飛び込み、女の子を抱え込んだ。
「大の男のやることかい? こんな小さな女の子に、なんて酷いことを! 可哀そうじゃないか、こんなにおびえて……」
「人の店の方針に口を出すな! こっちだって、そんな小さい役立たず、いらねえんだよ!」
「じゃあ、店長を呼んで来なさい! この子はわたしが引き取るわ」
男は、店長に事情を話した。
実は、店長も少女を疎ましく思っていた。
女の子を養う条件で、ロザーヌ伯爵夫人から多額の報酬を受け取っていた店長は、エレナの出現で、ふと、考えた。
(ここであいつを養うよりも、あの女に渡してしまったほうが断然得策だ。厄介払いも出来て、約束の報酬もいただける。こいつは一石二鳥だ)
「仕方ない、そいつにくれてやれ。別に居なくても構わん。せいせいする!」
店長からの伝言を、男はエレナに伝えた。
「構わん。お前にくれてやる! せいせいする!」
店長の言葉、そのままだった。
男はそれだけをいうと、荒々しくドアを閉めた。
「お嬢ちゃん。もう怖いことはないからね。それにしてもきれいな金髪に青い目。お人形さんみたいに可愛い子だね。……今日から、おばさんちにおいで。うちもパン屋だけど、手伝いや裏仕事は、少しずつ覚えて行けばいい。ところで……お嬢ちゃん。お名前は?」
「……アルデーヌ」
「アルデーヌ。……良い名前だね。買い物に行くから、来な。服がボロボロだし。……買ってやるから」
エレナは、身支度を整えたアルデーヌを家に連れて帰った。
「おまえは正気か? 買い物のついでに子どもまで拾って来て!」
「仕方がないだろ。成り行きだったんだから。仕事の手伝いくらいしてくれるだろう?」
夫はあきれ果てた。
自分の妻は、買い物ついでに子どもを拾うような女だったのか。
ただ、エレナの頑固さを知る彼は、反対するのが無駄なことだとも知っていた。
「お前が拾ったんだから、お前が世話をしろ! 俺は知らん!」
夫は、そう言い放った。
こうして、エレナはアルデーヌを養育することになった。
厳しくしつけ、家事を教えた。
失敗は「ごめんなさい」が言えたときには許してあげた。
時々、何もしない時間にひとりで泣いているのを見つけたこともある。
「お兄様に会いたい。……アルダークお兄様」
それを耳にしたエレナは、すぐに声を掛ける。
「アルデーヌ、あんた、お兄さんがいたのかい?」
アルデーヌは頷いた。
「えっ? まさか、あのパン屋に居たのかい、あんたのお兄さんは」
「ううん。ずっと、会ってない……」
「アルデーヌ、この手帳に、あんたのお兄さんの名前を書いてあげる。だから、忘れちゃだめだよ。大事な人は」
「おばさん。……ありがとう」
エレナは、次々と家事を教え、やがて冬が来た。
小さな手に息を吹きかけ、水仕事を続けるアルデーヌ。涙をこらえていることもある。
エレナが、アルデーヌの手を取った。
「アルデーヌ、バカだね、お前は。あかぎれが酷くなって……。なんで言わないんだい。こっちへおいで。薬を塗ってやるから。もう今日はいいよ。あとはやっとくよ」
また、別の日は、洗い物の最中にうとうととしていた。
「アルデーヌ、もういいよ。今日は寝な。その調子じゃ終わらないよ。明日もはやいんだから」
「はい、おばさん」
そこまで話すと、エレナはアルデーヌが泣いていることに気づいた。
「いやだね、何を泣いているんだい」
「だって、おばさんは、そうやって私を育ててくれてたって思い出すと……。それに字も教えてくれた。店のものが読めず、教会で聖書も読めなかったら困るって……。感謝してます」
「やだね。いまさら、そんなことを言われたら照れるじゃないか」
ミリーも目を潤ませている。
「すごく感動しました。おばさんが、アルデーヌを引き取ることになったいきさつなんて、物語みたいで……」
「困ったね。二人とも、そんなこと言って……」
ミリーはさらにエレナに向かって言った。
「おばさん。……おばさん宛に、手紙を預かっています。アルダーク様から」
「貴族の坊ちゃんがわたしに?」
「はい」
ミリーは、エレナに手紙を渡した。
「『店主の方へ
妹がお世話になっています。
わたしはウィシュナー伯爵家の長男、アルダークと申します。
本来ならば直接会いに行きたいのですが、足が弱く、屋敷を出ることすらできません。
こんなに近くにいるのに、会うことすら困難で、もどかしい限りです。
ぜひ、一度でも妹アルデーヌに会わせてください。
ただ、会って、話をしたいだけです。
お願いできますでしょうか。
聞き届けてくださったら嬉しく思います。
アルダーク・ウィシュナー 』」
「貴族の坊ちゃんが、わたしに敬語で手紙を送ってくるなんて……」
エレナは深い溜息をついた。
「どうやら、本当なんだね。……本当に、アルデーヌの兄さんなんだね」
それだけを言うと、エレナは黙って部屋を出て行った。
しばらく経った後、エレナは大きな袋を持って戻ってきた。
「アルデーヌ、これを」
ズシリと重いその袋の中には、大量の金貨、銀貨が入っている。
「おばさん、これ……」
「十年分の給料だよ」
「え」
「持って行きな」
「でも、こんな大金……」
「十年分には足りないくらいだよ。それに、アルデーヌ、おまえは今日限りでクビだよ」
「おばさん、どうして?」
「どうしてもなにもないよ。お兄さんが探しているんだ。それに、貴族にお嬢様を、いつまでもこんなところにはおいておけない、ここで別れたほうがいいんだよ」
「え、そんな」
「そのほうが絶対に幸せになれるよ。いずれ社交界の花になる人間だ。お金も、もともとおまえの結婚資金用のお金として貯めてきていたものなんだから、気にしなくていいんだよ」
「おばさん、わたしは十分幸せだから」
「何言ってるんだい。全然違う世界だよ。もっともっと幸せになるさ」
「わたし、お兄さんに会ったら、ちゃんと戻ってくるから」
「聞き分けのない子だね。もともとの世界に戻るだけじゃないか。それが自然だよ。だからお行き、アルデーヌ。……幸せにならなかったら許さないよ」
エレナの目に涙が溢れている。
アルデーヌは、エレナが泣くのを初めて見た。
「ありがとう。……ありがとう、おばさん」
アルデーヌは、お金と着替えを持ち、ミリーと一緒に店を出た。
兄に会える喜びと不安を、胸に抱いて……。
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