『悔恨の果てに』2

2020.3.6

  更新 《【第四章】【第五章】【第六章】  》 松下真美  著





 【第四章】   別れ



 何事もなく三年が過ぎた。

 アルダークは十歳、ミリーは八歳になっていた。


 アルダークは、このごろ少し心配していることがある。家政婦リュゼの顔色があまり良くないのである。

「リュゼ。最近顔色が悪いようだけど、どこか具合が悪いことはない?」

 ある日、たまりかねたアルダークは尋ねた。

「大丈夫ですよ。心配なさらないでください」

 リュゼは笑顔で応えた。

「だったら、いいけど……。無理しなくてもいいから」

 杞憂だったと思いたかった。

 ただ無邪気なミリーを悲しませたくはなかった。この天使のような愛らしい少女には、リュゼの具合のことは話さなかった。

 それでも、何事もなく三か月が過ぎた。



 ある日の朝早く、ミリーがアルダークを起こしに来た。

「アルダーク様、起きてっ。大変なの!」

「ミリー、どうしたの? こんなに早く……」

「お母さんが……」

「リュゼが?」

 アルダークは着替えもせず、リュゼの部屋へ急いだ。

 リュゼは自室のベッドに休んでいた。


「リュゼ!」

 アルダークが額に手を充てると、かなり熱い。


「ひどい熱だ。リュゼ、しっかり」


 アルダークの声に、リュゼが目を開けた。


「アルダーク様、申し訳ございません。……どうしても起きれなくて……。今すぐ、支度を……」

「しなくていい。そんなこと、しなくても……」

(リュゼは無理していたんだ。……そうでなければ、こんなに悪くなるはずが……)

「今日はゆっくり寝ていて。タオル絞ってくるから……」


 アルダークは台所へ降りて、タオルを水で絞った。そして急いで部屋に戻り、それをリュゼの額に乗せると、ミリーの方を向き直った。


「ミリー、何か作ることが出来る? えっと、……消化のよい食べ物とか……」

「うん。いつもお母さんと一緒に作っているから、大丈夫。……待ってて」

 ミリーは台所に立って、作り始めた。


 一時間後、パン粥と野菜のスープが出来上がる。

 それをリュゼのもとに運んだが彼女は食欲がなく、少し口にしただけで、その後再び眠ってしまった。


 アルダークは、その日は一日中、リュゼに付き添い看病した。

 そして、次の日も、また次の日も……。

 さらにその翌日、リュゼの熱は下がる。


 一瞬、安堵したのもつかの間、その翌日にはさらに高い熱を出した。


 そしてついに彼女は、門番に馬車を出してもらい、病院を受診することとなった。


 (悪い予感がする)

 アルダークはリュゼが戻ってくるまで、気が気ではなかった。

(戻ってくるだろうか……)

 ただミリーを置いての受診だ。必ず戻ってくるはずだ。

 アルダークは懸命に祈り続けた。


 だが二日後、アルダークは、戻って来たリュゼから、とうてい受け入れ難い話を聞かされることとなった。



「ごめんなさい、アルダーク様。……もっとお仕えしたかったのだけど」


 リュゼの病状は深刻で、もっと田舎の空気のよい診療所での治療を勧められたのだ。

 もともと弱い体質で、かなり無理をしていたことが今回の悪化の原因だと診断され、これ以上断るわけにも行かなくなったのだという。


 リュゼは、すでにヒスカール家とロザーヌ宛に、診断書と辞表を提出していた。


「そんな……。リュゼ。会えなくなるなんて……」


「アルダーク様……」


 リュゼはアルダークを見つめていた。

 リュゼはわずかな間にやせ細り、やつれ、顔色は悪いままだった。

 それでも一人で屋敷に戻り、杖をついた姿でアルダークの前に立っている。

 そうまでしても、アルダークのもとに戻りたかった意思が見える。


「リュゼ。お願いだから。……そんな悲しいこと言わないで。ぼくはずっと、ずっと、リュゼが帰ってくるのを待っている。だから……。早く病気が治るよう、お祈りしている。だから……」

 どんどん涙声になっていく。

 ミリーは、すでに号泣していた。

「アルダーク様と別れるなんて、いや! お別れなんてしたくない!」

「ミリー、ぼくも別れるのは悲しい。……でも、ぼくはミリーのこと、忘れないから」

 その後、泣き疲れたミリーがベッドで眠ってしまうまで、二人は待った。



 そして二人だけになったとき、リュゼが口を開いた。


「アルダーク様。どうか聞いてください」


 リュゼは穏やかに、ゆっくりと喋る。


「アルダークさまは、今は絶望されているかもしれません。でも大きくなって、かならずここから出られる日が来ます」

「えっ」

「信じてください。そして、約束してください」

「リュゼ。……それは」

「希望は失わない限り、必ず成就します。わたしは信じています」

「……」

 それはリュゼの信仰心からの言葉だった。

 そしてリュゼの言葉はさらに続く。


「お願いです。アルダーク様。どうか約束してほしいのです。ここを出た後、決して復讐など……。決して仕返しなどしないということを」


「えっ」


「アルダーク様。恨み心で恨みは消えません。さらなる恨みを生むだけです。たとえロザーヌ様を殺しても、あなたは幸せにはなりません。人を殺めた十字架を背負って生きるしかないのです。そして、殺めた人を待っているものも、また、死です」


 リュゼの声は弱弱しくとも、その真剣さには気迫があった。


「リュゼ……」


「お願いします。わたしはアルダーク様に、そんな風になって欲しくないのです。出られたら、今度こそ幸せになって欲しい。前を見て、神様の示しているほうへと……」


「……わかった。約束する」


「失われた時間は戻ってきません、永遠に……。どうか、これから後の時間を大切になさってください。復讐なんてこと、決して考えないでください。これが私からのお願いです」


 アルダークは目を丸くしていた。


 リュゼは、具合の悪さの中で、このことを告げるために戻ってきたのだと気づいた。

 ―ー復讐しないでほしい。

 それはロザーヌのためではなく、アルダークのためなのだということを伝えるために。

 アルダークの人生が、この後に醜い苦しみを背負わないでほしいのだという、リュゼの願いなのだ。おそらく、たった一つだけでありながら、最大の願いなのだ。


「うん、約束するから安心して……」


 それ以外の返事はできない。

 アルダークは声を震わせていた。



 翌日、鍵のかかった自室の中で、アルダークはリュゼとミリーを乗せた馬車の音を聞きながら、大声で泣き続けた。






  【第五章】    忍び寄る悪意





 新しい家政婦は、昼過ぎにやってきた。

 もはや、リュゼのような優しさはなく、仕事だけを行う時計仕掛けの人形のようであった。 

 実は、アルダークの部屋には、ドアの横に小さな扉が付いている。外と通じていて、そこから食事や着替えなどが支給されるようになっている。

 リュゼのときは使われなかったが、今度の家政婦はアルダークの顔も見たくなかったのか、そこからしか必要品を送ってこない。 


 たまに新聞が入っている。ちょっとした切り抜きであることも多い。

 その日は、こんな見出しだった。

『悲劇の伯爵家 ついに後継者 決まる』

『前妻の子ども三人、未だ不明。悲劇のウィシュナー伯爵家の後継者がついに決まった。今年二歳になる後妻の息子、アルベルト・ウィシュナーで、伯爵は正式に発表し、遺言書を作成したとのこと』


 新聞を見た後、しばらくは放心状態で、食事も取ることが出来なかった。

 継母に子どもができたことは、リュゼから聞いて知っていた。

 しかし、その子が正式に爵位を継げば、もう自分の家には帰れないことになる。自分は、生きているのに「幽霊」のような存在になってしまったのだ。 家政婦の嫌がらせであった。


 アルダークは、三日に一度部屋の掃除に来る家政婦を嫌い、書斎へ逃げ込む。

 すでにこの場所は、アルダークにお気に入りの場所と化していた。 


 アルダークは、書架の本を一冊ずつ読んでいった。意味不明でも、読んでいくうちに理解できることもあった。

 こうして一日の大半を書斎で過ごしていた。

 なんの抵抗もなかったし、書斎の掃除だけは自分でやるようにした。

 しかし物語を読んでいると、街のにぎやかな様子や世界各地を旅する冒険記などを見ると、自然に涙が流れる。


(もう……いやだ)


 家政婦が来て一か月、完全に閉じ込められた生活に、早くも不満が出てきた。

 本来なら、もっと自由が与えられる身であったのに……。


 不満はストレスとなり、いつもその大きさに潰され、呼吸困難を起こすことさえしばしばであった。今でいう過呼吸の発作で、心身症の一つである。


 時が経つにつれて自身を呪った。

 顔から笑顔も生気も失せ、少食もあり、次第にやつれてきていた。

 人と話すこともなく、ひっそりとした静寂だけがあった。

 心がだんだんと麻痺していった。心を閉ざし、鍵をかけていく。そんな作業を作り上げた人物を思いだした。

(そうだ。ぼくが閉じ込められているのは、あの女のせいだ)

 継母であるロザーヌ―ー。

(あの女のせいで、ぼくたち兄弟はバラバラにされた。きっとみんな辛い目にあっているだろう。あの日の、あの女の眼は忘れない。幼かったため何もできなかった……)

 アルダークはの思いは鬱屈していた。そんなときに、

(そんな女に生きる資格はない。殺してしまえ、復讐してやるんだ。この恨みを思い知るがいい)

 心に、そんな言葉が浮かんできた。


(復讐……。そうだ、あんな女。殺してしまえばいいんだ)

 アルダークの中に、次第に悪の心が芽生え始めていた。

 このことは、もっともリュゼが危惧することであった。


「復讐しようと思わないでくださいね」


 別れる前日、病気の身でありながらも伝えたかった言葉……。

 しかし、今のアルダークにリュゼの必死な願いは届かなくなってしまっていた。


 そのころから、アルダークにの心は黒く染まっていった。

 憎しみ、恨み、相手(継母)をどう苦しめ、殺すべきか……。助言も、戒めも、優しさもない。……静寂の時間。思いは暗く、堕ちるところまで堕ちていく……。そんな感じであった。



 そして、アルダークが十五歳になったとき、家政婦が数年ぶりに新聞の切り取ったものを入れていた。そのときの記事が、

「ウィシュナー伯爵、死亡」

 だったのである。


(生来、病弱であられた。父上……。ついに会えないまま……)


 しかし、記事は、伯爵夫人であるロザーヌが、そのとき外出しており、付き添っていなかったことまで報じていたのだ。


 アルダークは、身体中の血液が煮えたぎるように感じた。

 憎しみ、恨み、殺意があふれ出してくる。


(あの女、許さない。いつか、いつか、殺してやる)

 そしてその思いは日々増大していき、今に至ったのである。





 七年間の完全幽閉により、アルダークは脚力が弱くなっていた。

 なんとか歩くことはできるが、走る場所がないこともあったが、走ることが出来なかった。

 長時間の立ち居も難しく、書斎の椅子に座っていることが多かった。そしてさらに、昼間、特に夏の直射日光を窓越しにさえ見ることが困難になっていった。


 部屋のカーテンは閉めっぱなし、書斎の窓は書架の陰になってまともにみれない。


(普通に暮らしていれば、こんな身体にはならなかったのに……)

 その思いも、継母への殺意となった。


 今や完全に、その考えにとらわれていた。

 あの日、心に浮かんだ「復讐してやる」の言葉。

 心に浮かんだあの言葉を、アルダークは自分の考えだと信じ込んだ。

 だが、それは悪魔、もしくは悪霊と呼ばれるものたちの巧妙なささやきだった。


 アルダークは、日が経つにつれ、表情は暗く、湖水のような青い瞳に光はなく、よどんでいるようになっていった。

 昔の彼を知っている人が見れば、変わり様に愕然とするに違いない。

 昔の彼―ー。


 しかし、神はすでにアルダークに「光の道」を用意されていた。


 そう、彼に「神様を信じること」、「神様に感謝すること」を教えてくれた人物。

 その人物にゆかりのものが、もうすぐアルダークの前に現れるのである。






【第六章】    再会





 アルダークが相変わらずの生活をしているとき、家政婦からメモを貰った。

(いつもは新聞の切れ端なのに)

 メモにはこう書かれていた。

「結婚します。辞表を出しました。今日の夜で終わりです。新任は明日の昼に来るそうです。―ールティシア―ー」


(へえ、いい身分だな。それにしてもあの家政婦、ルティシアって名前だっのか)


 七年も同じ家にいながら家政婦の名前も知らなかったわけである。それに、家政婦も自己紹介はしなかった。

(それにしても新任とは……。誰が来ても同じだ。また名乗りもしないやつなんだろう。どっちにしろぼくには関係のないことだ)


 家政婦は、その夜、門番が用意した馬車で去って行った。


 翌日の早朝、一人の少女が別荘に向かっていた。

 歳は十五歳前後。新任の家政婦として派遣されたのである。


 昨夜、前任の家政婦が会いに来て、引継ぎを受けた。

「あの……ルティシアさん、『明日の昼食から』って聞きましたが、明日の朝は、どうされるのですか?」

「いらないのではなくて? ほかの食事だって、まともに召し上がったことがないし、朝は全然口にされないから。まったく、なにさまのつもりかしら?」

 悪口を並べて、ルティシアは去って行った。 ―ーもう関わりたくない、というふうに。


 少女は、横にいる母親に、

「お母さん、昼からだったけど、明日の早朝に行こうと思うの」

 と、言った。

「そうね。話を聞くと、食事もろくにされていないようですし……。アルダーク様の身が心配です。わたしの方がお願いするわ。早く行ってあげて。そして、アルダーク様を、あなたにお任せするわ」

 母親も同意した。


 かくして、少女は別荘を目指し、目的地に着いたのは午前八時であった。



 同じころ、アルダークは書斎の椅子で眠っていた。

 昨夜はベッドまで行かず、そのままだった。起きれず、そのままずっと眠っていた。


「アルダーク様。大丈夫ですか?」


 ふいに少女の声が聞こえ、驚いて目を覚ました。

(天使?)

 一瞬、そう思った。


 栗色の髪を三つ編みにしたメイド姿の少女には、羽根も輪もない。

 リュゼのおもかげを宿す少女のエメラルドグリーンの瞳が濡れている。


(新しい家政婦か。……でも、なんてリュゼに似て……)


 アルダークの心に、リュゼの名前を思い出させるほど、少女はリュゼによく似ている。

「もしや、きみは……」

 アルダークが口を開いたとき、

「アルダーク様。覚えていてくださったんですね。わたし、ミリアムです」

 少女が名乗った。


「ミリアム……。―ーミリー、か……?」

「はい!」

 その少女こそ、リュゼの娘、ミリーだった。


 だが、アルダークは唇をぎゅっと結んだ。

「……」

「アルダーク様……?」

 アルダークは眉をひそめる。顔向けができない。

「申し訳ないが、きみに会わせる顔がない」

 彼は顔を伏せた。

「アルダーク様、どうしてですか?」

「ぼくは変わった。以前、きみと遊んでいたころのアルダークは、どこにもいないんだ!」

 確かに、アルダークの姿を見て、ミリーは思った。

 美しい面差しは変わらないが、やつれ、青い瞳は光がなく澱んでいるように見える。そして全体的に暗い。


「アルダーク……様。どうしてそんなことに……」

「ミリーになにがわかるんだっ!」

 ミリーに対して、アルダークの声が激しくなっているが、押えられない気持ちが先走り、止められない。

「ぼくはこの七年間、人の声も聞かずに過ごしてきた。家政婦が動く機械的な音だけがある以外は、静寂の世界だった。わかるわけがない。どれほど苦しかったか。……全部、全部、あの女が……っ」

「アルダーク様……」

「だいたい、どうして? どうして今になって、きみなんだ?」

 アルダークの肩が震えている。

「こんな、こんな闇に墜ちる前なら……。前、な……ら……っ」

「アルダーク様」

「ミリー」

「はい」


「出て行ってくれないか? この部屋(書斎)から」


「でも……」


「用があれば呼ぶ」

「でも、アルダークさま……」

「出て行ってくれ!」

「!」

「……頼む」

 アルダークは、決してミリーの顔を見ようとはしなかった。



「分かりました。……では、失礼します」


 ドアが開いて、閉まる音がした。

 鍵を掛ける音はしなかった。

(鍵の音がしないのも……七年ぶりか)

 ミリーに会ったことで、忘れていた楽しい時期が思い出された。

 しかし、長い年月の間で、着実に育っていた闇を払拭するのは不可能である。


 心の中で、光と闇が交錯し、アルダークを悩ませた。

 その重圧で、過呼吸の発作を起こす。椅子から立てないほどの激しい発作だった。

 さっきミリーを出て行かせたことを、アルダークは悔いた。

 だが、今までだってひとりで対処していたし、しばらくすれば治まるので、『どうにかなる』とも思っていた。


 そのとき、隣室のドアが開く音がした。

 ミリーが、もう一度話をしようと、戻ってきたのだ。

 ミリーはアルダークの異変に気付いた。


「アルダーク様、どうしました? 苦しいのですか?」


「ミ……リー……。大……丈夫……だ。……いつもの、こと……、だ、から、すぐ……良くな……るから……」


「とにかくベッドへ。歩けます?」

「……ああ」

 ミリーの肩を借りて、よろよろと立ち上がりベッドへ行って横になった。

 ミリーが優しく背中をさすっている。

 それで楽になるわけではないが、ミリーの優しさにホッとするものを感じていた。


 しばらくすると、呼吸が楽になって来た。


「ミリー……。もう平気だから……」


「でも、まだ苦しそう……。本当に、良くなられたのですか?」


「ずいぶんと楽になったよ。でも……ミリーには会わせる顔がない」


「そんな……。わたしはアルダーク様に会えるのを楽しみにしていましたのに……」


「だから、さっきも言ったように、昔のぼくではない。心を闇に染めてしまい、堕ちるところまで堕ちてしまった。今更、どんな顔をしてきみに会ったらいい? 顔向けなんてできない」

 アルダークは、ミリーに背を向けて座った。

「そんな悲しいことを仰らないで。わたしは、アルダーク様がいくら変わられてもあなたの傍にいます。母とも約束しました」


 人の心の温かさ。人の温もりが、アルダークの心に染みていく。

 少しの沈黙の後、アルダークが口を開いた。



「憎しみが止まらない。憎しみが止まらない。憎しみが止まらない……んだっ。ミリー」


「アルダーク様」


 突然アルダークの背中が重くなった。

 ミリーが後ろから抱き着いたのだ。

「……」


「アルダーク様。アルダーク様が、どれだけそんなことを仰られても、ミリーはお傍にいます。わたしはずっと、ずっとお傍にいます」

「ミリー……」

 アルダークの背中から力が抜けて行った。

「……変わってないな。ミリーは」

「え?」

「初対面のときも、再会のときも、第一声は『大丈夫?』だった。ミリーは、いつだってぼくのことを気に掛けてくれた。こんなぼくなんかのことを……。……ありがとう」

 ミリーの瞳から涙が流れ落ちた。

 ミリーが涙を拭こうと手を離した。

 そのとき、アルダークがミリーの方に向き直った。

「ミリー、ごめん。……色々と。……かなり、ひどいことを言って……」

 ミリーの瞳からぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちる。

「そんな。……気にしていませんから」

 アルダークは、決まり悪そうにしている。

「あ、わたし、大事なことを聞き忘れて、戻ってきたんですが……」

 ミリーが思い出したように声を上げた。

「アルダーク様、朝食、どうされます?」

「え……? 朝? ここ数年は食べてないけど、用意しているの?」

「いいえ、これから……」

「なら、いいよ。いらない」

「でも、身体に毒ですよ」

「でも、発作が起きた後だし、食欲は……」

「じゃあ、ミルクだけでも持ってきますね」

 ミリーは言い終わる前に立ちあがり、階下へ駆けて行った。


「ミリー」


 ほどなくしてミルクを入れたカップを持って現れる。アルダークは、持ってきたミルクを全部飲み干し、顔を上げ、そして言った。

「ミリー。何かすることがある? 掃除も洗濯も休んでいいから。久しぶりに話がしたい」



 ミリーは、ベッド脇に椅子を持ってきて座った。


「ミリー、きみが来るなんて思わなかった」


 アルダークの声は穏やかになっていた。


「てっきり、挨拶もしない機械みたいな家政婦が来ると思っていた。ミリー、七年ぶりだね。大きくなったな」

「アルダーク様も、以前よりずっと背が伸びて、お声も少し低くなって……。大人になられたな……って、思いました」

「リュゼは元気?」

「今は、自宅で療養中です。最近は調子も良くなって、少しなら外出もできるようになっています」

「良かった。大丈夫なんだな」

「はい」



「でも、ひとつ、不満がある」


「えっ? 一体なにが……」


「きみのその口調だよ。……敬語は使わないでくれ」

「でも、わたしは一介の使用人ですし、身分も低くて……。第一、失礼です」

「そんなの……。使用人とか、身分とか関係ない。以前みたいに、普通の言葉で話してほしいんだ」


「アルダーク様、本当にいいのですか」

「ああ。ミリーに敬語で話されると他人行儀な気がして……」


「良かった。実をいうと、敬語を改めて使うのをためらっていたの……。今更って思われるかなって……」

「うん、そうやって話すほうが『ミリー』って感じがする」

「アルダーク様ったら」


 アルダークの顔に笑みが浮かぶ。


 七年も笑ったことがなかったのに、素直に笑顔になれたのは、ミリーのおかげである。


「ミリー、変なことをいうって思うだろうけど、聞いてくれる?」

「え? 何?」

「さっき、目が覚めたとき、ミリーが一瞬、天使に見えたんだ」

「え? 天使って……。そんな、畏れ多い」

「いや、本当にそう見えた。実は、はじめてきみを見たときも、天使だと思った」


「アルダーク様」


「リュゼとミリーが居たときのことを思い出したんだ。何重にも心に鍵をかけたはずなのに、ミリーに会って鍵が外れたみたいだ。こんな闇に染まったぼくに、光が一条差し込んだ気がした……。

たとえ、羽根や輪がなくても、きみは天使だ。ぼくは、リュゼとミリーに何度も救ってもらった。何度も『ありがとう』って言いたい」


「アルダーク様。そんな風に言われると、わたし、どうしたらいいか……」


 ミリーは戸惑っていた。

 そのミリーの様子を見ていたアルダークは、片手でミリーを抱き寄せた。

「きゃっ」

 ミリーが、驚いて声を上げる。

「急に変なことを言ってごめん。でも、ぼくは救われたんだ。昔も今も」

「アルダーク……様」


 ミリーは、しばらくの間、このままでいたいと思った。

 アルダークが抱き寄せたのは、恋愛感情ではない。リュゼがアルダークを抱きしめたのと同じ感情なのだろう。

 ミリーも承知の上だった。だが、アルダークの腕の中で、ミリーは安心感を覚えていた。


 ただ、アルダークはいつまでもミリーを離さなかった。


 ミリーが顔をのぞくと、アルダークは眠り始めている。

(無理もないわ。発作の後なのに、ずっと話していたのだから。ゆっくりお休みくださいね)


 ミリーは、アルダークをベッドに寝かせ、布団を掛けた。

 そして、階下の台所へ降りていき、昼食の準備を始めた。




 アルダークが目覚めたのは、昼前だった。

(今、何時なんだろう。そういえば、ミリーがいたような気がするが……。夢でも見ていたのか)


 再会して、また眠ってしまったので、夢だったのか本当のことだったのか、区別がつかなかった。

 だがすぐに分かった。

 ミリーが、昼食の用意を終えて部屋に入ってきたのである。


「アルダーク様、お昼ご飯です」


「ありがとう。頂くよ」

「下に来ますか? 昔みたいに」

「ミリー、ごめん。……数年間はずっと閉じ込められていたから、足が弱くなっているんだ。歩くのは大丈夫だけど……。階下まで行けるかどうか……。走ることも跳躍も、たぶん出来ない。長時間立つことすら辛いんだ」


 アルダークの言葉に、ミリーは、また泣いてしまった。


「ミリー。別に泣かなくても……」


「だって、アルダーク様が、そんな辛い目に会っているなんて思わなくて……。どんなに苦しい思いをして、生活していたのか……。わたし、わかってなくて……」


「だからって、泣かなくていいから。……昔は笑顔が多かったのに。……泣き虫になったな」

「だって、だって……」

「ミリー、もうわかったから……。早くしないと食事が覚めてしまうのでは……?」

「あっ、そうだわ。お昼、お持ちしますね」

「そうだ、ミリーも一緒にここで食べない?」

「えっ、でも……?」

「一人で食べるより、二人の方が楽しいと思う」

「では、お持ちしますね」

 ミリーは、階下の台所に、料理を取りに行った。



(ミリーがきたため、復讐する思いが薄れるおそれがある。……だからといって、ミリーを遠ざけることはしたくないし、出来ない)


 ほどなくして、ミリーが昼食をもってきた。


 長年、少食のこともあって、沢山は食べることはできなかったが、料理はいままでの数倍も美味しかった。

 ミリーと再会したことで、アルダークは光を見出した。

 しかし、その光の対極にある復讐を、心に誓っている。

 それは変わらない。



 それほどまでに、ロザーヌへの恨みは大きかったのである。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『悔恨の果てに』2                        了


【第四章】

【第五章】

【第六章】









Eimi企画  それぞれの虹

Eimi企画の作品群、および人物紹介。

0コメント

  • 1000 / 1000