もう一人のマリアⅢ

(2020.10.24公開 (エピローグ)≪作品に寄せて≫≪解説≫) 


                       蘇芳環





           (エピローグ)





 満開の桜は美しい。


 豪華でありながら、花びらの一枚一枚は春の空に溶け出すように、淡くほのかな薄紅色で、何枚も重なりながら日の光を受けて、透き通り、影が薄れ、春を待つ人の心に幸せを運んでくる。

 わずかに一週間の幸せを、あたり一面に与えると、次には枝先から薄緑に芽吹き出し、さっそく季節の変わり目を告げようとする。香りもそのころが一番強くなる。

 桜の甘い香りにどことなく酸味が加わり、さくらんぼか桜餅を思わせるようになると、幸せの香りというよりは、もう夏の到来なのかと、意識が変わる時期となるのである。

 その美しい桜が嫌いになって、もう何年も経っている。

 入学シーズンには門出に彩りを添え、目だけでなく心までも高揚させ、歓喜を呼び起こさせる桜。

 それは気分を一層盛り上げるものなのに、それでも僕にとっては、むしろ終焉を告げ知らせる最期の日の、天使のラッパのように感じられるものなのだ。


 真理亜がうちに来てから一年後の桜の季節に、両親は離婚した。

 二人の中ではとっくに結論が出ていたのだ。気付いていなかったのは僕だけだった。

 もう、早くから母は帰っても以前のようにおしゃべりしなくなり、残業は増え、誰のためにも手の込んだ料理を作らなくなり、何より早くから二階に上がって仕事の続きをすることが多くなっていた。

 真理亜と父さんが一緒に浴室に入っていったあの日、母さんはついに帰らなかった。

 そして翌日の夕方に帰ってくると、突然二階の僕の部屋に布団を運び込み、中央にアコーディオンカーテンを取り付けて「今日から半分ずつ使うから」と、言ったのだった。

 不思議なほど口論はなかった。

 喧嘩も事件も何もなく、ただ静かに家庭は崩壊していった。

 一階では真理亜と父さんが二人っきりで過ごすことが増え、時折父さんの猫撫で声や、真理亜の笑い声が二階にまで響いた。

 母さんは二階にいて、二人について何も語らず淡々と仕事を続けているように見えた。

 そして三学期も終わりに近づいたころ、母さんが失踪した。

 慌てて大騒ぎする僕とは対照的に、父さんは冷静で落ち着いていた。

 捜索願いも出さず、真理亜とともに日に日に言葉数が減っていくだけで、何かが終わろうとしているのか、新しく始まろうとしているのか、どちらかだと思った。

 ただ、そのころは何もかもが異常に映った。

 だが春休みと同時に母は帰ってきた。そして今度は、父と真理亜がいなくなったのである。

 今度は、二人からの連絡はまったくないまま春休みの二週間は過ぎてゆき、何も言わず、二人の事を話題にすることさえ無い母さんの態度に不信感さえ募らせ、僕はついに、進級式の日に母さんを問い詰めて真実を知ったのだった。

「実家に帰ったり、友達を訪ねたりして色々な人に相談したばってん、結局自分で結論出さんといかんかったんよ。貴司には悪いけど、離婚届ば出したけん。慰謝料と養育費代わりにこの家ばもろうた。周りの噂はうるさかろうが、社会に出る前の予防接種と思うて頑張らんばいかんよ」

 母さんはそう言った。

「お父さんは、うちらよりも真理亜を選んだんよ。しょうんなか。どこぞで二人で仲良く暮らすが良か。うちは興味なかけん」

 重い口だった。母はそれだけしか語らず、そして二人のことは、その後もう二度と語らなかった。


 進級式の日、桜舞う通学路を歩くのは辛かった。

 本当なら中学生になった真理亜と、それを心待ちにしていた父も一緒にいたはずで、中学校に向かう二人の姿を桜の中に想像しては、今となってはどうにもならない、現実としての実感がなく、僕はその事実をいつまでも受け入れられずにいた。

 やがて、真理亜と父さんが駆け落ちしたと噂が流れた。

 それは小学校中に広がり、地域の住民たちに広がり、各学校関係者の間にも広がっていった。

 僕と母さんは捨てられたのだと言われ、僕があらわれると、どこでもかげ口が叩かれる様子を見ることになった。だか、辛く長すぎる一年間が過ぎても、父さんと真理亜からは音信不通のままだった。

 頑張ろうと言った母さんは僕より先に降参したらしく、早いうちから転校願いを出していたらしかった。そして一年後にはそれが受理され、気に入っていたその家を売ることになったのである。







 歌う彼女の声は魅力的だ。

 聴衆は増えている。

 かき鳴らすギターや雑踏の様々な音の中にあって決して紛れたりしない。独特の容姿も以前のように目立たないし、むしろ周囲に溶け込んで自然に見える。

 敗れたジーンズ。真鍮の大きなピアスし指輪と、長いチェーンに黒っぽい十字架(ロザリオ)、二十歳前の彼女はイカしている。

 一曲終わるたびに、少ない聴衆ながらも拍手が沸いている。


 どうしていまごろ彼女に会うのだろう。

 しかも、こんなところで、こんな姿の彼女を見るなんて。

 あれから七年の時が過ぎている。

 僕はもう高校を卒業し、苦しみ抜いたあの季節はもうとっくに忘れていい過去のことになってしまっている。

 中学生になって転校し、父のことも真理亜のことも記憶の中だけになっていき、もう何もかも終わったことだとうのに。

 そう考えると同時に首を振った。違う、違う。


 母さんの職場は変わり、新しく家を建てたとき

「あの子の施設に近づくなんて、運が悪いわ」

 とつぶやいたけど、僕はそう思わなかった。

 大学受験のとき、その地域を選んだのは確かに故意的だった。

 そしてまた、いつか真理亜の施設を訪ねてみたいと思っていたのも事実なのだ。


 僕は忘れていない。

 あのころの辛さを、真理亜の姿を、一日たりとも忘れないでいる。

 復讐? 憎しみ? 悔しさ?

 家庭は壊され母子家庭となり、親しかった友達とも縁が切れ、何もかも失った。

 たったひとりの女のせいで・・・。



 曲が途切れ、聴衆が少し減ったとき、僕は彼女と目が合った気がして、前に身体を乗り出した。

 彼女は僕を見た。

 気が付いたはずだ。だが表情も変えず、無視して仲間の二人と喋っている。

 少し不安な気持ちになった。

 鼓動が大きく激しくなってきている。

 話しかけようか、僕が分からないのなら、こちらから近づいていこうじゃないか。

 忘れられない過去を、彼女はいとも簡単に忘れているというのか。

 僕らの事など何ともないと、どうでもいい過去だったというのだろうか。


 僕は、前に歩を進めた。

 そのとき、ギターを弾いている男が声を上げた。

「アキ、今度はあれでいこうや! 昨日できたばかりの新曲で」

 アキと呼ばれ、真理亜のはずの彼女が男を振り返り

「OK」

 と親指を立てると、タンバリンで拍子を取り、すぐに二人のギターが掛け合いを始めた。新しい曲が始まった。


 ----アキ? アキだって?

 僕は目を凝らした。

 真理亜だろう?

 どうみても真理亜だろう。・・・・真理亜じやないのか?

 真理亜じゃないというのか。

 彼女がボーカルを取ると、今度はギターが静かになり、それはボーカルを効かせたバラードナンバーになった。

 聴衆も再び足を止め、耳を傾け、歌に引き込まれ始めている。

 静かな雰囲気の音楽は、いきり立つ僕の心とは正反対で、前列で聴いているには、独り浮いているような気になってきた。


 真理亜ではない、真理亜ではないのだ。

 似ているだけで、別人だ。

 真理亜ではない。

 真理亜ではなかったのだ!

 心に滲みるようなバラードに再び聴衆も増えてきた。

 僕は背を向け、ゆっくりとその場を離れ始めた。


 歌声は魅力的で、いつまでも尾を引くものである。真理亜にそっくりの彼女の歌を、ずっと聴いていたいとも思う。だが駄目だ。

 僕は襟を立てて顔を隠し、うつむいて歩いた。

 頬を伝うものを他人に見られたくなかったからだ。 

 憎しみは止まらない。腹立たしさも止まらない。忘れられない悪い女、真理亜。


 真理亜に会いたかった。

 縮れ髪で色黒でやせっぽっちで大きな目の真理亜。 

 無口で、どんな中傷にも涙を見せなかった真理亜。

 運動会では一番速かったのに、父さんが独り占めしてしまった真理亜。

 松の木の前に立ち、僕を待って彼女は聖書を簡単にそらんじてみせ、自分の不幸な生い立ちを語った。

 あのころは意味も分からなかったから、僕はひどく傷つけられた気がしたけど、本当は、語りながら、一番傷ついていたのは真理亜のはずだった。

 真理亜は我慢強く、誰にも本音を語らなかった。


 僕は何度も考える。

 どうしてこれほど忘れられないのか。

 どうしてこれほど苦しいのか。

 どうしてあのころの僕は、まだ子どもだったのか。

 

 ・・・・僕は真理亜が好きだった。誰よりもずっと好きだった。


 桜の花びらの舞い散る中で、中学校の制服を着た真理亜を見たかった。

 父さんがいやだったのなら、うちを出て行ってほしかった。

 そうしたなら、僕たちに未来は開けただろう、いくらでも施設に会いに行けただろうし。


 ・・・多分、そうしたかったのだ。


 改札口が近づいてくると、もう歌声は聞こえなくなっていた。


 真理亜が幸せであればいい。

 乱舞する桜の花を心に描きながら、・・・・ただそう祈って、僕はホームへと足を速めた。



                                   

(了)








  ≪作品によせて≫

 『もう一人のマリア』は、2007年、九州文学に掲載されたものです。

 発表直後から大変反響の大きかったもので、思い出深いものであります。

 これは賛否両論多かったですね。

 まず、聖書を作品内に使用するな、という意見。

 主人公が男とは思えない、男ならもっと行動で示せ。

 主人公が小学生らしくない。

 小学生があまりにも言葉巧みに考えすぎている。

 内容が派手、設定が派手。

 という感じですねー。

 割と多くのご批評をいただきました。

 それでもこの作品を、掲載しましたのは、やはり、この作品は、ごく最近まで話題に上っていて、かなり多くの方が、このストーリーについて、その方なりの考えや感想を沢山寄せてくださったからです。

 また、この真理亜という少女の個性については、特に男性の方には人気があり、魅力的であるとお褒めの言葉もいくらか頂きました。

 まあ、全体的にいろいろご批判はあるでしょうが、少し前のものでもありますし、文章、表現など、下手だなあと思う箇所はたくさんありましょうが、あまり細かな点は気にせず、楽しんでいただけたらと、思います。

 

  皆さま方の感想など、お待ちしています。






≪解説≫

 こちらの小説は、2007年九州文学に掲載されたものを、2012年11月、当時のFC2小説ブログに掲載していました。

 しかし2016年の年末に、パソコン故障、廃棄となりまして、以来、ID・パスワード紛失で、触ることができず、当時の小説ブログはそのまま放置しておりました。


 この度、ID・パスワードが見つかりました。

 ただ時の流れと共に、心境は様々に変わって行ったことを実感し、この小説ブログを閉じることといたしました。

 しかし、掲載されている小説はweb上に残したいと思いましたので、掲載小説をこちらへ転載させていただくことになりました。

 

 『もう一人のマリア』は当時のFC2でも、様々に感想を頂きました。少々過激な問題作です。感想など頂ければ、嬉しさ一入です。


 最後までお読みくださって、ありがとうございました。





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