もう一人のマリアⅡ

(2020.10.24公開 (三)(四)(五))

                          蘇芳環




(三)




 翌日から夏休みだった。

 学校から帰ると、家具が玄関の外にまで飛び出ていて、慌ただしく父の声が聞こえてきた。

 よくよく見ると、家具は全部二階の僕の部屋のものだった。


「二階を真理亜の部屋にしようと思うんだ。真理亜は来年には中学生だし、女の子だから、二階の方がいいやろ。貴司は客間を使えばよかやけん」

 ショックだった。

 真理亜の事を先に考える父の態度はますますエスカレートしていっている。

 まるで彼女が娘で、僕が居候じゃないか。

 僕は帰ってくるなりまくしたてた。

「冗談じゃないっ。ひいきもいい加減にしてくれ!」

 そして靴を蹴脱いで玄関から二階へ駆け上がると、部屋の中から鍵をかけた。

「貴司! おい、貴司!」

 父の声がついてくる。

 その興奮した様子が僕を苛立たせた。

 

 あのマリアは本当に神に愛されたものなのか。

 本当に神を愛したものなのか。

 我が家に嵐を持ち込んで、中傷と、混乱ばかりが襲ってくるのに、何故マリアなのだろう。

 そして、何故マリアはうちに来たのだろう。

 僕は覚えている。

 この日の夜、父は僕を書斎に呼んで「戒めについて話そう」と言ったのだった。

「主は、一人の律法学者に”一番大切な戒め”は何かと尋ねられこう答えられた。『一番大切な戒めはこれです。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、力を尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい。そしてあなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい。それは、どんな犠牲の供え物よりもはるかに大切です』と」

 そして父は続けた。

「貴司、神を信じなさい。そして隣人を愛しなさい。どうゆう意味かわかるね」

 僕は返事をしなかった。

 真理亜に優しくしろとはっきりそう言えばいいのに、聖書など引用する父の威圧的な態度が嫌だった。

 父の心には僕の存在はどれ位小さなものになっているのだろうか。そして、どれ程真理亜に尽くすつもりなのだろうか。

 そんな風に見えてしまう僕の見方は間違っているのか。

 誰かに尋ねたい。誰か本当に公平に見て感じて、正しい判断を下せる誰かに教えてもらいたい。

 その誰かは、一体真理亜がうちに住むのは当然だと言うだろうか。

 真理亜が僕の部屋へ移るのは当然だと、そう言うだろうか。

 胸が痛かった。

 胸が痛くて悲しかった。

 父の言葉に返事をしないだけがせめてもの意思表示で、僕は自分の意見をすることなどやめようと、この時そう決めた。

 結局真理亜が帰ってきて、彼女は書斎横の客間を使うと言ったので、その件は落着したが、僕が部屋を譲らなかったことで、父の愛情はむしろ真理亜に注がれることになったのは明らかだった。


 そして十月の秋季大運動会の時に父の気持ちはあからさまになってしまった。

 それは学校にも家にも慣れた彼女が、ようやく誰かと話す姿を見かけるようになった頃だった。

 いつも紺色の地味な服装で、小さな声で喋る真理亜が、その日は別人のように瞳を輝かせて、いきいきと運動会のプログラムに参加していた。


 僕はずっと目の端に真理亜を追った。

 頭が小さく脚が長く、抜群のスタイルのマリアは人目を引いた。

 他のみんなと同じ体操服なのに、全く違って見えるのだ。

 春にはカカシみたいに細かったのに、わずか半年で、真理亜は見違えるほど変わったのだ。

 目の周りの隈はなくなり、美しい歯並びが目立った。

 笑顔と同時に零れる白い歯に視線は集まり、胸もお尻も形よく突出し、細く長い首や肩が、柔らかく大人っぽく映った。

 特に真っすぐに通った背中のラインから引き締まって持ち上がったお尻までの後ろ姿は思わず見とれる程綺麗で、僕は、その日本人離れした個性にときめきを覚えていた。


 その日、彼女を見つめるみんなの様子が、何も言わずとも羨んでいるように見えた。

 短距離走も障害物走も対抗リレーも、出場する全てが、彼女の独壇場だった。

 速い。

 とにかく速かった。

 長い脚はよく上がり、よく回転した。

 常に二位以下を引き離し、圧倒的な強さで独走する姿は見事で、何年過ぎても、そこだけはあざやかに蘇ってくる。

 モノクロのアルバムの中に混ざったカラー写真みたいに、今でも輝きは失われていない。

 僕は彼女に心奪われた。


「真理亜ーっ、いいぞっ、いけいけっ」

 父の応援もまたもの凄かった。

 周囲の視線を気にすることもなく、トラックの白線近くまで出て帽子を振り回し、あるいは拍手しながら、大声で叫び続けた。

「真理亜ーっ、真理亜ーっ」

 もし周囲に誰もいなければ、たぶん父は、真理亜と一緒に走っていただろう。

 だがそうできずとも、実際に退場門を出る六年生を待って、彼女の姿を見つけるや否や駆け寄り、

「よかったなあ、最高だった、真理亜っ」

と声を上げて喜び、父は真理亜を抱きしめていた。

 みんなが驚愕の声を上げて二人を見ても、父は全く臆することなく、情熱的に真理亜を抱擁した。

「おじさん、すごかあ」

 当時一番仲の良かったクラスメイトの津川が、競技も見ず、じっと真理亜と父を視線で追いかけた。そして逐一を報告してきた。

「おじさん、真理亜と手を離したくなかごたる。今度は肩を叩いた。相当ぞっこんじゃ。目尻が下がっとるたい、やるなあ」

「いいよ、実況中継するなよ」

 僕は恥ずかしさを通りこして、どうしようもなく腹が立っていた。

 父が真理亜に甘いのはもともとだったから、喜びを身体で表現する大げさな父がそれくらいするだろうことは想像できた。


 だがそれでも、あまりにやりすぎだと思わずにはいられなかった。

 そもそも二人にはみんなの噂が耳に入ってないのだろうか。

 真理亜なんか学校でどれほどやられてきたことか。

 わかっているだろうに、それでも父の独走を止めることさえしないなんて、腹立たしい。

 二人ともに腹が立つ。

 気が付くと苛々と爪を噛んでいた。


 真理亜がダントツに一位だったリレーの地区予選で午前中の競技を終え、それぞれに解散して、自分の地区のテントへと向かった。

 僕が行ったときには、父と真理亜がお弁当屋の弁当を広げて座っていた。

 腹立たしさはますます募るし、その様子には何か違和感もあった。

 辺りを見回した。

「お母さんは?」

「向こうの学校の仕事がまだ残っとるらしかたい」

 父の返事はそっけない。

「ほら、お前の分」

 そう言って、弁当屋の弁当とペットボトルのお茶を僕の前に置いた。

 母は、今までどんなことがあっても弁当だけは作ってきた。

 もともとの料理好きも手伝って、運動会には無理をしても豪華なおかずを作って、わずかな時間でも必ず飛んで来て一緒に過ごした。

 その母が弁当も作らず姿も見せなかったなんて、そんなことは初めてだった。

 

 何かが変だ。何かが確実に変化していっている。

 ひび割れねじれ、音を立てている。

 悪い予感がする。

 もしかするとこれから悪いことが起こるのではないだろうか。

 そのときそんな不安に苛まれ、僕は父と真理亜を交互に見つめていた。


 僕は祈った。

 毎日祈りの言葉を繰り返し、声に出した。

 もうそれだけしか出来ることは無かった。


  天父(ちち)よ、

  見えざる天に在ます父。

  聖なる御名(みな)の貴(とうと)まれますように。

  御国(みこく)のまいりますように。

  見えざる天に

  御意の

  行われると同じく

  地上に御意の行われますように。

  日ごとの糧をわたくしたちに

  お与えください。

  わたくしたちに叛(そむ)いた者を

  ゆるしますから

  わたくしたちの叛きもを

  おゆるしください。

  わたくしたちを

  躓きからお救いください。

  わたくしたちを悪からお救い下さい。





                 (四)





 僕の家は小学校から比較的遠かった。


 新しく造成された分譲住宅中の一角で、幅三メートルくらいの川に架かる古い眼鏡橋を渡ったところにある。近くには海水浴場として有名な美しい海岸線を有する砂浜があり、二百年以上も前から防風林として植林されたという松林か゛続いている。

 福岡市近郊の街で、幹線道路が町の中心を通っていて、道路沿いから少しずつ住宅が広がっている。

 新興住宅地の中の新築の一軒であり、昔から住む古い住民たちとはほとんど付き合いもなく、そのため、回覧板や地区役員のこととなるとよくトラブルが起こっていた。

 だけど、僕は、海の近いこの田舎町をわりと気に入っていた。

 白い砂浜も松並木も情緒豊かで、波の音もそう嫌いではなかった。

 悪天候のときに響くうねった轟音も悪くはなかったし、一年中通して吹き荒れる強い浜風も、肌にまとわりつく潮の香りもどちらかというと好きな方だった。

 新築の家とビニールハウスと松並木しか覚えていないけど、真理亜が現れるまでは、ずっとのんきで静かな時間が流れていたと思う。


 その日、僕は授業で描きかけの絵と水彩道具を家に忘れたため、昼休みに大急ぎで取りに帰ろうとしているところだった。

 確か、真理亜が風邪をひいて休んだ日で、心配する父が色々と気をまわして世話を焼いているだろう、間違っても僕の忘れ物など持ってきてくれるはずはないだろうと、最低の気分になりながら、一人で急ぎ、歩いていた。

 家には連絡を入れなかった。

 わずかに残る期待の気持ちを裏切られるよりは、始めから頼らないほうがましだったからだ。

 運動会が終わった直後の台風の季節で、不安定な秋空は、どうかすると夕立にさえ合う可能性もあると誰かが言ったが、僕は傘も借りずに学校を出て、身体を縮めて急ぎ松並木の間を抜けていった。

 海は荒れて空模様も悪く、遠浅の浜に点在する岩や遠くの岸壁に打ち寄せる波しぶきは、地に響く音を立ててぶつかり、また返していった。

 波は、いつもと違って喧嘩腰で、打ち砕けて白い泡となっても、繰り返し岸壁に当たっている。

 黒く重い雲の向こうの空は、ところどころ白く輝いていて、そこから光の筋が何本も海に落ちている。

 荒々しくも、何となく神々しい風景だと思った。


 真理亜が来て以来、いらだちが収まったことはなく、家にいても学校でも、あるいは遊びに行っても心が穏やかになることは無くなっていた。だがそれを、真理亜のせいだとか、父のせいだとか思いたくなかった。

 父は優しく立派な人で、真理亜だって頑張っているのだと、何とかそう思えるように、よくないことは考えないように一生懸命気持ちをひき締めてきたつもりだった。

 あるいは、僕には愛とか優しさとかが欠如しているのかもしれないと、自分を責める気持ちさえあり、少々神経質ぎみだったかもしれない。

 だからだろう、このときの松並木の間から見た海辺の様子を力強いと感じて、心魅かれたのだった。

 荒波の力強さ、寄せては返す地球の鼓動みたいな規則的な音に、安堵の思いが湧き出すようだった。

 穏やかな凪ぎの碧い海ではないのが良かったのか、いつもと違う打ち寄せる激浪に、目は釘づけとなった。鳴り止まない怒涛の轟が、当時の僕にとっては、安心できる優しいものに感じられていた。

 僕は立ち止まり、しばらくはその打ち寄せる高波を見つめていた。ほっとすると同時に、なにか熱いものが胸に広がっていく感じを受けていた。

 そのとき、松林の間に、何か動くものがあることに気がついた。  


 松並木は歩道の両側に並んでいる。

 その海側の木立の中に、揺らぐ人影を見たと思ったのだ。

 いつもなら気もとめないのだが、そのときの人影は、縮れた髪を風になびかせてゆったりと松にもたれかかり、向こうを向いて立っているように見えた。

 真理亜だった。

 初めはまったく気づかなかった。幽霊かと思ったほど、地味に静かに彼女は風景と同化していたのだ。

 真理亜は、近づく僕の方へとゆっくりと身体を向けて、僕の顔を見つめたり、あるいは僕の足元へと視線を移したりしているようだった。だが、具合の悪いはずの真理亜がこんな悪天候の海浜にいるなんて考えられなかったし、何度も目を擦ったり、凝視したりして本物かどうか確かめてみた。

「・・・真理亜?」 

 真理亜はあまり表情を変えなかった。

 僕の呼びかけに少し顔を上げて、わずかに微笑んだように見えた。彼女は松の木を背にしたまま僕が近づくのを待っていた。

 どうしてそんなところに?

 聞こうと思ったとき、真理亜は軽く右手を上げてみせた。

 彼女は僕の水彩道具をもっていた。

 僕が忘れていったことに気付いたのか、丁寧にも描きかけの丸めた画用紙まで道具の上に括(くく)り付けていた。

「あ、ありがと・・・」

 ぼそりとお礼を言った。

 家に連絡を入れなかったし、忘れ物を取りに帰るのは禁じられていたから僕を待っていたのではないだろうが、それにしてもタイミングが合いすぎる。

 じっと真理亜の顔を見つめた。

 ああ、もしかすると、真理亜もまた、この荒々しい海を見つめるためにここに来ていたのだ。

 ふと彼女を見つけたとき、彼女はこの松並木の中に立ちすくんでいた、歩道を歩いていたわけではなかったではないか。

 真理亜も、この時化の波濤(はとう)に心を動かされたのだろうか。

 ダイナミックに岩に打ち砕ける荒波が泡となり、海面を埋め尽くさんばかりに広がっていく様子に心奪われ、恍惚としていたのか。この激浪の海をいつまでも目の当たりにしていたかったのか。

「玄関に忘れていっていたわ。五年生の図工は午後からでしょ。知ってる。だからこの時間に来たの。今、昼休みでしょ。本当は学校まで持っていくつもりだったけど、ここで会えて良かったわ、ちょっと寒いかなあって思ってたところ」

 真理亜は小さな低い声で喋った。

 強い浜風に所々声は掻き消されている。

 だが真理亜の声は透き通っていて、穏やかな返答でさえ場に華やぎを与えた。

 荒れた海とは対照的な繊細で柔らかな声は、案外届かないようでよく届くものだった。

「熱、あんだろう。わざわざ持って来んでも良かったんに」

 真理亜は返事をせず、ただ何となく口の端を上げたたけだった。僕はそれを受取ろうと近づいて彼女の顔を見上げた時、初めていつもとは違う彼女の様子に気が付いた。

 目が赤い、真っ赤だ。その頬に残る筋の跡と、必死で堪えようとしているかのような歪んだ眉はわずかに震えている。

 泣いていた? こんな処で? 家に居ればベッドの中でゆっくり過ごせるはずなのに、悩みなんか父さんがいくらでも聞いてくれるだろうに。

 真理亜の様子に動揺した。

 僕にとって真理亜は加害者で、僕は常に被害者だった。

 泣いているのは僕の方だという思いが、いつも胸の奥から込み上げていた。

 真理亜が泣くはずはない。

 だが、荒海を前にした彼女の頬には、確かに涙の跡がくっきりと残っている。

 いつも無表情な彼女は、どんな噂も、中傷も、軽く受け流しているように思えていた。

 だから僕も、彼女は、中傷されたりイジメられたりすることなど、何ともない特殊な人間なのだと、勝手に思い込んでしまっていた。

 いや、考えてみれば、この容姿の真理亜は生まれた時からずっと被害者だったはずだ。ずっと施設暮らしだったのだから、おそらく僕が考える程度ではなく、もっと深く傷ついてきたはずなのだ。

 その時、一番近い松の木の根元に置いてある文庫本程の小さな書籍が目に入った。

 その緑色の表紙には見覚えがある。僕は差し出された水彩道具へと伸ばした掌を、そのまま足元の書籍へ移して指さした。

「あの聖書、父さんのだ。もろうたんか」

 真理亜の視線が宙に浮いた。

 緑色の小さな携帯型聖書は、洗礼を受ける以前に手に入れたものだと聞いている。自分で買ったのか知り合いに貰ったのか、その辺はハッキリしないが、それにしても随分前から大切にしているものである。

 まさか真理亜にやるなんて。

 再び胸が締め付けられてきた。

 聖書の言葉を引用して、様々な説教を展開させてきた父だが直接読んでもらったことはない。

 僕は去年、挿絵の入った薄いものをもらった。

 字は大きく、中は抜粋されたものだけが載っている子ども用のもので、緑色のそれは、いつもガラスケースの書棚の中の奥にキッチリと収まっていて、勝手に触ると腹を立てる程大切にしてきた、そんなものだった。

「違う。あたしのよ」

「だから、父さんにもろうたっちゃろ」

「違うわ」

 僕はムッとして、水彩道具を差し出そうとする真理亜を無視してその横をすり抜け、木の根元へと屈んで、緑色の書籍を取った。

 やっぱり父さんのだ、いつもこれを手にして長い説教をしているじゃないか。

 だが僕がそれを掴んだ途端に真理亜が大声をあげた。


「……門番は牧者の為に門を開く」

 普段の彼女からは想像出来ないハッキリとした大きな声だった。

 彼女は突然、聖書の一説をそらんじ始めたのだ。

「『……門番は牧者の為に門を開く、牧者は羊を呼び、羊達は彼の声を聞き分ける。牧者は一頭一頭の名を知り、一々に名を呼ぶ』」

 それはルカ伝だった。

 僕は口をつぐんだ。声は出て来なかった。

「『門から原へこうして引き出し、さて牧者は羊の群れの先に立ち、羊達は彼を追う。歩みつつ、声をかける彼の声を知るからである。他人が万一、牧者を装ってやってきても羊達はついていかない。むしろ怯えて逃げて行く。なぜなら、他人の声を羊は知らず、その声に惑わされることが無いからだ』」

 茫然となった。

 真理亜は堂々と輝いて見えた。彼女は緑色のそれを掴み、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「あたしの一番好きな箇所。羊は牧者を間違わない。あたしは決して主を間違わないわ」

 そして聖書を掴み取ると、水彩道具を僕に押し当てて今度は、いつもの柔らかな声で言った。

「これは施設に入所する時、施設長がそれぞれに配るものなの。あたしは生まれてすぐ入所しているから、絵本よりずっと読んでる。寺越のおじさんもうちの施設に来たときに貰ったんだと思うわ。おじさんは、水曜日と日曜日には必ず来て、本を読んでくれたり、あらゆるレクリエーションに参加して、聖歌隊の指揮までしてくれたわ。うちの施設は小倉だったから、おじさんの話す博多弁が珍しかったし、ちょっとおもしろかったから、どの子もみんなおじさんが好きだった」

 深呼吸をした。脈が荒波の高波よりずっと大きな音を立て始めている。

 僕の知らない父の話だ、父と真理亜の話だ。

 そしてまた、真理亜の口からこれ程長い言葉を聞いたのも初めてだった。

「おじさんは、当時の施設長の知り合いだったから、来てくれるようになったって聞いている。でも、施設長が代わってもずっと来てくれた。……施設長は何年かに一度変わっていくけど、誰もあたしを見て『里親を申し出る者はないだろう』って言ってた。あたしだけは最後まで施設に残って、十五歳で自立支援所に送られて、すぐに追い出される運命だろうって言われてたわ」

「……でもうちに来た」

 ぼそりとそう言って真理亜から目を逸らした。僕は心を見られたくなかった。

「ええ。でもおばさんは最後まで反対やったんよ。あの日、貴司にあったあの日、おじさんとおばさんはキッチンの奥で言い争ってた。あたしを引き取るというのはおじさんが強引に決めてきたことだったって、その時初めてわかったわ。その頃の施設長に大きな口をきいたから後には引けないとかなんとか言ってた。……あたしは、あの時多分追い返されるだろうと覚悟して話を聞いてたの。あのまま置いてくれるなんて思ってみなかった」

 僕は記憶をまさぐった。

 あの初めの日、誰もいなかったのではなく二人とも奥にいたのだ。しかも言い争っていた、そして母さんはやはり賛成していなかったのだ。

 なんとなく安堵し、そしてなんとなく同情にも似た悲しい気持ちが込み上げ、それを振り捨てようと声をあげた。


「……あんたはマリアなんだから、世界一番愛されとる女性のはずっちゃない。父さんなんか、あんただけしか可愛がらんばい。よかじゃなかね」

 しばらく沈黙があったので顔を上げて彼女を見ると、彼女は大きな目を益々大きく見開いて、穴が空く程僕の顔を見つめていた。

「なんね」

「……マリアって?最初の日も言ってたけど、何のこと」

 彼女は不思議そうな表情を浮かべて僕を見ている。

「マリアはマリアたい。聖母マリアは僕だって憧れとる。イエスが十字架に架かる時、最期までその場を離れず、泣き崩れたりもせず、イエスと共に耐え抜いた……」

「『さらに注目すべきは”優しい聖母”と形容するマリアの強さである。十字架に取りすがり、泣き叫ぶことなく、……それは我が子が自ら選んだ天父(ちち)の杯(せいはい)に対する彼女の完全な理解を示す、……失神もせず、三時間を十字架の傍に立ったことである。……彼女は崩れなかった。言わば悲哀そのものとなりながら、悲痛に黙す祈りそのものと化しながら、彼女は三時間、立ったのである』」


 絵本より読んでいる、と言うだけのことはある。

 彼女は今度は、いとも簡単にヨハネ伝の何節目かを暗唱してみせた。

 まさに、父が以前に説明してくれたシーンに違いなかった。

 そして彼女はじっと僕の目を見つめていた。しばらくは喋らなかったと思う。

「目撃者ヨハネの記述の、聖母マリアは偉大ね。……でも残念、あたしの名前はそのマリアじゃないわ」

「えっ」

「もう一人いるやろ。あたしのは、そっちから取ったのよ。マグダラのマリアって、売春婦とか夫を裏切った女とか、悪霊にとりつかれた女とか、そんな風に言われている女のことよ。要するに、悪女の代表みたいなの。知らんの?自分を救ってくれたイエス様の御足(おみあし)に落ちた涙を髪の毛でふいて、それから香油で塗るところは有名でしょ」

 知らなかった。

 そんなマリアは初めて聞いた。

 父は子ども向けに教育的な場面だけを抜粋して説教してきたのだ。

「うそたい。誰だってそんな悪い女から名前を取ったりするわけないっちゃろ」

「だって、あたしの両親は二人とも、普通の日本人なんよ。どう思う?」

「……え?」

 首をかしげて真理亜を見つめた。

 意味がわからなかった。

「だから生まれてすぐに乳児院に預けられたのよ、ううん、捨てられたんよ。父も母も、一度も連絡してくることはなかった。厄介払いが出来てせいせいしたんでしょうね。だから、当時の施設長がこの名前がつけたんよ、悪い女にちなんで。……悪ふざけか冗談で言うただけやったんやろうけど、……残念なことにそういう経緯(いきさつ)を面白おかしく教えてくれる人はたくさんいるわ」

 やっぱり僕は意味がわからず、真理亜の顔をただ茫然と見つめていた。

「望まれて生まれてきた多くの人達とは違うの。あたしなんて外見がこうだから、一度聞いたら嫌でも忘れられん」

「突然変異ってこと?」

 僕のその言葉に、一瞬真理亜はきょとんと視線を宙に浮かせた。それから急に声を上げて笑い出したので、僕はすぐさま馬鹿にされた気になって顔を熱くした。耳や首まで真っ赤になっていただろう。

「違うわ。貴司って時々、びっくりするくらい子どもなのね」

 かあっとして目を伏せると、すぐに唇に柔らかな感触が伝わってきた。

 僕はびっくりして飛び跳ねた。

「なんばするとか!」






    (五)




 真理亜が唇を重ねようと、近づいていたのだった。

 まだ小学生なのになんてことをするのか。

 僕は真理亜をにらみつけた。

「怒んなくてもいいじゃない。施設長だって、おじさんだって、みんなあたしに触るわ」

「・・・?」

「みんなあたしには何をしたっていいと思ってる。外見がこうだし、入所のいきさつがそんな風だったら・・・」

「意味わからん。何か、あんた狂っとうっちゃない。考えが変やろ」

 真理亜がキスしようとしたものだから気が動転していた。

 心臓が激しく鳴り響き、とにかく何か罵倒すべきだと咄嗟に判断した。


「子どもやねえ、貴司」

 真理亜は片頬上げ、笑みを浮かべた。時折見せるあの微笑みだった。

不愉快だ。不愉快この上ない。

 僕はますます興奮した。

「あんただって子どもやなかとか! 何ば言うとるのかっ、さっきから偉そうに。あんたの名前が、世界一悪か女子(おなご)から取ったものか、世界一りっぱな女子(おなご)から取ったものか、そんなことはどっちでも良かろうが!どっちだって同じたい! あんたは悪か女子たい、それだけは間違いなかっ」

 僕はまくしたてた。

 理屈なんかどうでもよく、とにかく文句が言いたくて言葉を吐いただけだった。

 だが、真理亜の顔からみるみる笑みが消えていくと、彼女は悲しそうに視線をそらした。

「・・・そうよ」

 再び、波音に消え入りそうな声に戻った。

 不遜な雰囲気の微笑みがなくなると、普段からの自信なさげな彼女に戻っていて、声ばかりか本人さえも、力無く暗いものになっていた。

 空模様は次第に怪しくなり、どことなく寒気がしてきた。

 悲しそうな真理亜の様子を見ていると、彼女を罵倒しなければよかったという気がしてきた。

「・・・あんた、さっき自分は主を間違わんて言うたやろ。あんたにとって僕の父さんは、主なるイエスみたいに見えるんか」

 真理亜は顔を上げた。

 やはり悲しそうな表情だった。

「でも父さんはイエスじゃなか。どんなにりっぱに見えても・・・」

「りっぱじゃないわ。・・・りっぱじゃないし、牧者じゃないし、主じゃない。主は触ったりしないし、欲望と愛を取り違えたりしない。おじさんが口でどんなことを言ったって、偽善よ、偽善だわ」

 真理亜は淡々とそう言った。

 そして突然背を向けると、背を向けたまま彼女は何かをつぶやいた。

 僕は胸の鼓動の高まりを抑えるのに必死になっていたし、今にも降りだしそうな天候は、強風より暴風に近いものになっていた。

「なに? よく聞こえん。何かよく分からんけど、父さんをけなすなら施設に戻ればよかたい」

 真理亜は振り向き、声を上げた。

「そうよ。・・・貴司はおじさんよりも、どの施設長よりも、ずっとましだわ。欲得なしで正しいことを堂々と言う。あたし、あんたなら・・・」

 彼女はそう言ってじっと僕の目を見つめた。

 なにか言いたそうな彼女の大きな目は、しかし何が言いたいのかぼくには分からなかった。

 僕がいつまでも黙っていると、やがて彼女は泣きだしそうな表情になって、ようやく口を開いた。

「あんたなら、あたし、・・・嫌いじゃないわ」

 真理亜はそう言うと、聖書を持って、突然去って行った。

 最初はゆっくりと僕の顔を見つめたまま、後ずさりをしていたが、やがて思い切ったように背を向けて走り出したのだった。

 僕はわけが分からなかった。

 真理亜は怒っていたのか、泣いていたのか、あるいは僕を馬鹿にしていたのか、それさえもまったく分からなかった。

 ただ、彼女と直接話しても、この苛立ちは無くならないのだと知った。  

 そして、やがて空の灰色が濃くなり、僕も急ぎ足で学校へ戻らなければならなくなった。

 理解できない真理亜の言葉も態度もすぐに頭から吹き飛んだ。

 空が光っては轟き、夕立に襲われる恐怖で、すぐに頭の中は真っ白になってしまったからだった。


 その日が境目だったのかもしれない。

 

 母がまだ帰らないある日の夕方、何となく脱衣所を覗いた僕は、そこに真理亜の下着とパジャマがあるのを見た。同時に奥の浴室からお湯を汲み出す音が聞こえ、真理亜が浴室で汗を流しているらしいことを知った。

 中から突然真理亜が出てきたらどうしようかと思い、僕は胸を高鳴らせて、急いでその場を離れた。

 だが、そのすぐあとには父がやってきて、脱衣所で服を脱ぎ始めたのだ。

 そして、当たり前のように裸になって、浴室に入っていったのである。

 

 それは恐ろしいことだった。

 恐ろしい光景であり、決して見てはならないものだった。

 二人は一緒に浴室にいる。

 だが、真理亜からの悲鳴は上がらないし、父さんの驚く声も聞こえてこなかった。

 茫然となった。

 いくら小学生でも、真理亜は充分に大人っぽく、胸のふくらみも腰つきも子どもとは思えない。

 一緒に浴室に入るなんてどうかしているだろう。

 信じられない。

 いつからそんな風だったのか、いったい二人はどうなっているのか、僕はそれまでまったく思いつくこともなかったのだ。

 だが、真理亜はあれ以来、僕に近づいてくることはなかったし、僕もまた、真理亜を避けるようになっていた。

 そうしてお互いにまったく口を利かなくなっていた。

 二人の事を真理亜に問いただすことなどできないし、まして父さんに何か話そうという気はまったく起こらなかった。


 僕には真理亜の気持ちは分からない。

 両親は日本人でありながら、黒人的な容貌を持って生まれるという不幸は体験していない。

 中傷の中だけで生きていく辛さも、ほんの数か月で音(ね)を上げた。

 考えていることも、言うことの意味も、ほとんど理解できない。

 父を偽善というなら、どうしていつまでもこの家にいるのだ。

 どうして仲睦まじそうにふるまうのか、どうして拒絶しないのか、僕には何一つ理解できないのだ。

 だが、もう僕は祈らなかった 。

 悪いことは現実に起きている。

 真理亜は神様を信じていない女であり、神様を愛していない女である。

 なにもかもが最低最悪に向かって走りだしたのだ。

 もはや、止めることなどできないところに来てしまっているのだと知った。





(エピローグ)(作品によせて)(解説)は『もう一人のマリアⅢ』へ

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