2020.10.24 04:47もう一人のマリアⅢ(2020.10.24公開 (エピローグ)≪作品に寄せて≫≪解説≫) 蘇芳環 (エピローグ) 満開の桜は美しい。 豪華でありながら、花びらの一枚一枚は春の空に溶け出すように、淡くほのかな薄紅色で、何枚も重なりながら日の光を受けて、透き通り、影が薄れ、春を待つ人の心に幸せを運んでくる。 わずかに一週間の幸せを、あたり一面に与えると、次には枝先から薄緑に芽吹き出し、さっそく季節の変わり目を告げようとする。香りもそのころが一番強くなる。 桜の甘い香りにどことなく酸味が加わり、さくらんぼか桜餅を思わせるようになると、幸せの香りというよりは、もう夏の到来なのかと、意識が変わる時期となるのである。 ...
2020.10.24 04:21もう一人のマリアⅡ(2020.10.24公開 (三)(四)(五)) 蘇芳環(三) 翌日から夏休みだった。 学校から帰ると、家具が玄関の外にまで飛び出ていて、慌ただしく父の声が聞こえてきた。 よくよく見ると、家具は全部二階の僕の部屋のものだった。「二階を真理亜の部屋にしようと思うんだ。真理亜は来年には中学生だし、女の子だから、二階の方がいいやろ。貴司は客間を使えばよかやけん」 ショックだった。 真理亜の事を先に考える父の態度はますますエスカレートしていっている。 まるで彼女が娘で、僕が居候じゃないか。 僕は帰ってくるなりまくしたてた。「冗談じゃないっ。ひいきもいい加減にしてくれ!」 そして靴を蹴脱いで玄関から二階へ駆け上が...
2020.10.24 04:13もう一人のマリアⅠ(2020.10.24公開 (プロローグ)(一)(二) 蘇芳 環(プロローグ) 大学の入学式を終えて、通学路の桜並木を抜けたところで発車の合図を知らせるベルの音が聞こえてきた。 僕は急ぎ足でモノレールへの階段をのぼり、今にも閉まろうとする扉めがけて飛び込んだ。 途端に安堵して、ふうっと深呼吸をすると身体の力が抜けていった。終点のJR小倉駅までは少し時間が掛かるが、猛烈な桜並木の下で乱舞する花びらの記憶を消すには足りないくらいだ。 桜は嫌いだ。 特に入学式に舞う桜吹雪が一番嫌いだ。 抜けるような青空に舞い上がるピンクの花びらは雪のようで、ほんのり温かさの混ざった突風が幾人かの女子学生のスカートを巻き上げ、...
2020.10.21 04:36縄文からの風『縄文からの風』 蘇芳 環 「ひとくちに縄文時代と言いましても、草創期から、早期、前期、中期、後期、そして晩期まで一万年以上もありまして、近世や近代と同じような感覚では捕えられないのであります」 夏の真っ盛り、村の基幹集落センターの中会議室は百名近くの人でにぎわっていた。 平日の昼日なかに、考古学の講義を受けようなどというのは余程の暇人か、或いは相当なオタクか変わり者かに違いないと信じていただけに、その日、中会議室を訪れた桜井香織の驚きは大変なものだった。 香織は、友人の村瀬洋子に耳打ちした。 「ちょっと、どうなってんの。大見村中の人間が総出で来てるんじゃないの」 洋子は笑って拳を上げて、香織の頭を打つ真似をした。 ...
2020.10.21 04:24柚子『柚子』 蘇芳 環 朝早く、百合子は軽乗用車の後ろに柚子を乗せて、村の自由市場に向かった。 「お願いしまーす」 午前六時、まだ外は真っ暗だが、自由市場の駐車場には次々と荷を降ろすトラックで一杯だった。 マーケット内では明々と電燈が点けられ、検入や陳列の人で活気溢れている。 百合子は荷を降ろし、自分の名前の入った袋詰めの柚子を次々と棚に並べていった。 生産者が卸を通さず直接販売できる村営の自由市場は、数年前幹線の国道に面した土地を買収して建てられている。 高齢者ばかりが残る農村の村をあげての事業で、自由市場の隣には地ビール工場、レストラン、ハム工房、うどん屋等が軒を連ねている。 初めの年には見向きもされなかったマーケット...
2020.10.21 04:03ブルー『ブルー』 蘇芳環 ブルーの夢を見る。 僕はいつの頃からか、まるで青いフィルターが掛かっているような、周り一面青い霧に覆われているようなそんな夢を見るようになった。 そしてそれは何故か甘く切なく、その夢を見た日はいつも、何か大切な物を忘れてしまったような、探し物を途中で諦めたような、そんなモヤモヤした釈然としない気分に襲われるのだった。 「京平ちゃん、沖縄に行かないか」 同僚の木藤に誘われた。 「沖縄の与那国島に海底遺跡があるらしいんだ。マユツバものだけど、一見の価値はありそうだぜ」 木藤はどこで手に入れたのか、薄いパンフレットを開いてそこに写る海中ダイバーの写真を指差して言った。 それは一面...