ブルー

『ブルー』

            蘇芳環





 ブルーの夢を見る。

 僕はいつの頃からか、まるで青いフィルターが掛かっているような、周り一面青い霧に覆われているようなそんな夢を見るようになった。

 そしてそれは何故か甘く切なく、その夢を見た日はいつも、何か大切な物を忘れてしまったような、探し物を途中で諦めたような、そんなモヤモヤした釈然としない気分に襲われるのだった。


「京平ちゃん、沖縄に行かないか」

 同僚の木藤に誘われた。

「沖縄の与那国島に海底遺跡があるらしいんだ。マユツバものだけど、一見の価値はありそうだぜ」

 木藤はどこで手に入れたのか、薄いパンフレットを開いてそこに写る海中ダイバーの写真を指差して言った。

 それは一面青い背景の中にダイビングスーツに身を包んだ人間が、ただ独りポツンと写っているだけのもので、よくよく見てみると、その背景はコンクリートの段があるようにも見え、まるで大きな階段の中に人がいるような構図のものだった。

 その写真を見た時、なるほど一見の価値はありそうだ、とすぐさま賛成し、木藤と共に沖縄行きを決めた。


「京平ちゃん、何度か沖縄行ってるよね」

 飛行機の中で木藤が言った。

 学生時代からカメラ好きだった僕は、カメラを抱えて始終旅行ばかりしていた。

 沖縄も北海道も勿論撮ったし、そればかりか今回の与那国島にも幾度も足を運んでいる。

 だけど海底遺跡はまだ見た事はなかった。

 やがて出版社に勤め、カメラが本業になってからは毎日が情報との戦いで、あちこちに飛ばされ忙しさに追われて、もう以前のように芸術家気分でワクワクした感動と共にシャッターを切る事も少なくなっていた。

 だからこの誘いは久しぶりの開放感と本能的な喜びで心満たされ、僕は少なからず興奮していた。


 僕らは沖縄本島には寄らず、石垣島に直通で行って後、問題の与那国島へと向かう事にした。

 石垣島に足を降ろした瞬間、むうっとした熱風と独特の建て物に懐かしさが込み上げた。

 青い空と青い海、南国の街路樹、強風に曝され、葉をなびかせるさとうきび畑。

 何もかもが、ああ沖縄だな、と心踊らせずにはいられない。

 そして日焼けした人々の気さくな笑顔に触れた時、僕は美也子の事を思い出していた。


 美也子は幼なじみで、いつも僕の後をついて来る女の子だった。

 お転婆で明るくて行動的な彼女はテニス部や陸上部に入り、顔も手足もいつも日焼けでまっ黒だった。

 そしてカメラ狂いで旅行ばかりしている僕に強引についてきて、「帰らなくなるといけないから」と言って笑った。

 決して美人ではなかったし、僕らの間には殆ど色気もなかったけど、まるで兄妹のように何でも隠し事なく互いに話し合い語り合い、僕にとっては美也子は本当の姉のようであり妹のようであった。

 そして一度だけ犯した過ちもこの沖縄だった。


 大学最後の年、それまで交際してきた女性から強烈にフラれた僕は、現瑚礁を撮るという名目で沖縄に行き、そして美也子もまた影のようについて来た。

「京平、いいよ。あたしじゃあんまり色気ないからその気にならないかもしれないけど、でもほら、一応女だからさ、代わりに抱いてよ」

 馬鹿な事を、と、僕は鼻で笑った。

 だけど美也子は真剣だった。

 無表情の彼女の瞳から大粒の涙が零れた時、僕はやっと彼女の思いを知った。

 度数の高い泡盛が理性をマヒさせ、恋人以上に恋人らしく振る舞う美也子に触発され、僕達は身体を重ねた。

 美也子の身体は若木のようにしなやかで手足が長く、子供っぽい顔立ちとは相反した美しいプロポーションだった。

 美也子があまりにも女性であった事と、思った以上に小さな身体だった事に衝撃を憶え、僕は罪の意識に囚われた。

 やがて三十歳を過ぎ、心配した両親の半ば強制的な薦めで彼女は見合いをし結婚した。

 仕事に夢中になっていた僕は賛成する訳でもなく反対する訳でもなく、殆ど頭に入らないような状態で祝電だけを送った。

 あれからもう十年以上過ぎている。


「京平ちゃん、そろそろだよ、カメラいい」

 ダイビングスーツに身を包んだ僕達はボートの中でエンジン音が静まるのを待った。

 与那国島沖の海はいつも荒れていて、高い波と強風にボートは揺れに揺れていた。

 

 曇り空の下、それでも鮮やかな青い海はいつも僕を興奮させる。

 かつて渡難と呼ばれていたこの島の厳しさと力強さを見るような気がする。

 この島に魅了され、幾度となくここを訪れ写真を撮り続けた事もあった。

 立神岩も軍艦岩も飽きる程観たし、珊瑚礁の花畑と呼ばれているダイビングボイントも何度も訪れた。

 水深四十メートル以上と言われるハンマーヘッドを撮る為に、インストラクターのライセンスまで取得した。

 だがこのポイントは初めてだった。

 ボートの錨を降ろして念入りに水中の岩に錨綱を結わえ準備を済ますと、僕らは地元のダイバー達と海に飛び込んだ。

 途端に鮮やかなプルーが目の前に広がった。


 青い。

 青く、青く、どこまでも青い。

 それはあの夢の中と同じブルーの世界だった。

 水深十メートル付近から直線的な岩が姿を現わした。

 それは不思議な直線であり人工的で不可思議な印象を与える。

 巨大な階段のようであり、あの薄いパンフレットと同じ物が目前に広がっている感覚に、僕は言いえぬ感動を憶えていた。

 構造物と思われる巨大なその岩は、左右対称の形状を持って、驚くほど広範囲に広がって、僕らの前に立ちはだかっている。

 気も遠くなるようなブルーの中、珊瑚も海藻もなく訪問者もない。

 時折訪れるのは群れを離れた小さな魚達だけ。


 その彼らを相手にこの未開の岩は幾千年の時を経てきた。

 この静寂の海の中で一体何を考えて来たのだろうか


 僕は気がつくとシャッターを切り続けていた。

 ほとんど本能的だと思う。

 それが本当に遺跡であるかどうかはもはや関係なかった。

 長い間気づかずにいた不可思議なプルーの世界を何としても手中に収めたい、という欲求のみに支配されていた。

 何故こんな所にこんな物があるのだろうか。

 この島は充分に知り尽くしていると思っていた僕にとっては、頭を殴られたに近い。

 こんなすぐ側に、誰にも気づかれずずっと存在し続けていたなんて。

 この島の外観も、沖合いの海中も、人々の情の厚い笑みも、全部知っていた筈じゃなかったのか。

 感動はいつしか苦しみとなって僕の胸から溢れ始めた。


「京平ちゃん、大丈夫かい」

 最っ先にボートに上がった僕を心配した木藤が、海面から首を出して声をかけた。


 大丈夫じゃない。

 大丈夫でなんかあるはずがない。

 僕は男泣きに泣いていた。


 ―ー 美也子!


 もう何年も前に最も大切なものを失っていた事に、僕は今やっと気がついたのだ。



(了)


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