2020.3.6
更新 《【第四章】【第五章】【第六章】 》 松下真美 著
【第四章】 別れ
何事もなく三年が過ぎた。
アルダークは十歳、ミリーは八歳になっていた。
アルダークは、このごろ少し心配していることがある。家政婦リュゼの顔色があまり良くないのである。
「リュゼ。最近顔色が悪いようだけど、どこか具合が悪いことはない?」
ある日、たまりかねたアルダークは尋ねた。
「大丈夫ですよ。心配なさらないでください」
リュゼは笑顔で応えた。
「だったら、いいけど……。無理しなくてもいいから」
杞憂だったと思いたかった。
ただ無邪気なミリーを悲しませたくはなかった。この天使のような愛らしい少女には、リュゼの具合のことは話さなかった。
それでも、何事もなく三か月が過ぎた。
ある日の朝早く、ミリーがアルダークを起こしに来た。
「アルダーク様、起きてっ。大変なの!」
「ミリー、どうしたの? こんなに早く……」
「お母さんが……」
「リュゼが?」
アルダークは着替えもせず、リュゼの部屋へ急いだ。
リュゼは自室のベッドに休んでいた。
「リュゼ!」
アルダークが額に手を充てると、かなり熱い。
「ひどい熱だ。リュゼ、しっかり」
アルダークの声に、リュゼが目を開けた。
「アルダーク様、申し訳ございません。……どうしても起きれなくて……。今すぐ、支度を……」
「しなくていい。そんなこと、しなくても……」
(リュゼは無理していたんだ。……そうでなければ、こんなに悪くなるはずが……)
「今日はゆっくり寝ていて。タオル絞ってくるから……」
アルダークは台所へ降りて、タオルを水で絞った。そして急いで部屋に戻り、それをリュゼの額に乗せると、ミリーの方を向き直った。
「ミリー、何か作ることが出来る? えっと、……消化のよい食べ物とか……」
「うん。いつもお母さんと一緒に作っているから、大丈夫。……待ってて」
ミリーは台所に立って、作り始めた。
一時間後、パン粥と野菜のスープが出来上がる。
それをリュゼのもとに運んだが彼女は食欲がなく、少し口にしただけで、その後再び眠ってしまった。
アルダークは、その日は一日中、リュゼに付き添い看病した。
そして、次の日も、また次の日も……。
さらにその翌日、リュゼの熱は下がる。
一瞬、安堵したのもつかの間、その翌日にはさらに高い熱を出した。
そしてついに彼女は、門番に馬車を出してもらい、病院を受診することとなった。
(悪い予感がする)
アルダークはリュゼが戻ってくるまで、気が気ではなかった。
(戻ってくるだろうか……)
ただミリーを置いての受診だ。必ず戻ってくるはずだ。
アルダークは懸命に祈り続けた。
だが二日後、アルダークは、戻って来たリュゼから、とうてい受け入れ難い話を聞かされることとなった。
「ごめんなさい、アルダーク様。……もっとお仕えしたかったのだけど」
リュゼの病状は深刻で、もっと田舎の空気のよい診療所での治療を勧められたのだ。
もともと弱い体質で、かなり無理をしていたことが今回の悪化の原因だと診断され、これ以上断るわけにも行かなくなったのだという。
リュゼは、すでにヒスカール家とロザーヌ宛に、診断書と辞表を提出していた。
「そんな……。リュゼ。会えなくなるなんて……」
「アルダーク様……」
リュゼはアルダークを見つめていた。
リュゼはわずかな間にやせ細り、やつれ、顔色は悪いままだった。
それでも一人で屋敷に戻り、杖をついた姿でアルダークの前に立っている。
そうまでしても、アルダークのもとに戻りたかった意思が見える。
「リュゼ。お願いだから。……そんな悲しいこと言わないで。ぼくはずっと、ずっと、リュゼが帰ってくるのを待っている。だから……。早く病気が治るよう、お祈りしている。だから……」
どんどん涙声になっていく。
ミリーは、すでに号泣していた。
「アルダーク様と別れるなんて、いや! お別れなんてしたくない!」
「ミリー、ぼくも別れるのは悲しい。……でも、ぼくはミリーのこと、忘れないから」
その後、泣き疲れたミリーがベッドで眠ってしまうまで、二人は待った。
そして二人だけになったとき、リュゼが口を開いた。
「アルダーク様。どうか聞いてください」
リュゼは穏やかに、ゆっくりと喋る。
「アルダークさまは、今は絶望されているかもしれません。でも大きくなって、かならずここから出られる日が来ます」
「えっ」
「信じてください。そして、約束してください」
「リュゼ。……それは」
「希望は失わない限り、必ず成就します。わたしは信じています」
「……」
それはリュゼの信仰心からの言葉だった。
そしてリュゼの言葉はさらに続く。
「お願いです。アルダーク様。どうか約束してほしいのです。ここを出た後、決して復讐など……。決して仕返しなどしないということを」
「えっ」
「アルダーク様。恨み心で恨みは消えません。さらなる恨みを生むだけです。たとえロザーヌ様を殺しても、あなたは幸せにはなりません。人を殺めた十字架を背負って生きるしかないのです。そして、殺めた人を待っているものも、また、死です」
リュゼの声は弱弱しくとも、その真剣さには気迫があった。
「リュゼ……」
「お願いします。わたしはアルダーク様に、そんな風になって欲しくないのです。出られたら、今度こそ幸せになって欲しい。前を見て、神様の示しているほうへと……」
「……わかった。約束する」
「失われた時間は戻ってきません、永遠に……。どうか、これから後の時間を大切になさってください。復讐なんてこと、決して考えないでください。これが私からのお願いです」
アルダークは目を丸くしていた。
リュゼは、具合の悪さの中で、このことを告げるために戻ってきたのだと気づいた。
―ー復讐しないでほしい。
それはロザーヌのためではなく、アルダークのためなのだということを伝えるために。
アルダークの人生が、この後に醜い苦しみを背負わないでほしいのだという、リュゼの願いなのだ。おそらく、たった一つだけでありながら、最大の願いなのだ。
「うん、約束するから安心して……」
それ以外の返事はできない。
アルダークは声を震わせていた。
翌日、鍵のかかった自室の中で、アルダークはリュゼとミリーを乗せた馬車の音を聞きながら、大声で泣き続けた。
【第五章】 忍び寄る悪意
新しい家政婦は、昼過ぎにやってきた。
もはや、リュゼのような優しさはなく、仕事だけを行う時計仕掛けの人形のようであった。
実は、アルダークの部屋には、ドアの横に小さな扉が付いている。外と通じていて、そこから食事や着替えなどが支給されるようになっている。
リュゼのときは使われなかったが、今度の家政婦はアルダークの顔も見たくなかったのか、そこからしか必要品を送ってこない。
たまに新聞が入っている。ちょっとした切り抜きであることも多い。
その日は、こんな見出しだった。
『悲劇の伯爵家 ついに後継者 決まる』
『前妻の子ども三人、未だ不明。悲劇のウィシュナー伯爵家の後継者がついに決まった。今年二歳になる後妻の息子、アルベルト・ウィシュナーで、伯爵は正式に発表し、遺言書を作成したとのこと』
新聞を見た後、しばらくは放心状態で、食事も取ることが出来なかった。
継母に子どもができたことは、リュゼから聞いて知っていた。
しかし、その子が正式に爵位を継げば、もう自分の家には帰れないことになる。自分は、生きているのに「幽霊」のような存在になってしまったのだ。 家政婦の嫌がらせであった。
アルダークは、三日に一度部屋の掃除に来る家政婦を嫌い、書斎へ逃げ込む。
すでにこの場所は、アルダークにお気に入りの場所と化していた。
アルダークは、書架の本を一冊ずつ読んでいった。意味不明でも、読んでいくうちに理解できることもあった。
こうして一日の大半を書斎で過ごしていた。
なんの抵抗もなかったし、書斎の掃除だけは自分でやるようにした。
しかし物語を読んでいると、街のにぎやかな様子や世界各地を旅する冒険記などを見ると、自然に涙が流れる。
(もう……いやだ)
家政婦が来て一か月、完全に閉じ込められた生活に、早くも不満が出てきた。
本来なら、もっと自由が与えられる身であったのに……。
不満はストレスとなり、いつもその大きさに潰され、呼吸困難を起こすことさえしばしばであった。今でいう過呼吸の発作で、心身症の一つである。
時が経つにつれて自身を呪った。
顔から笑顔も生気も失せ、少食もあり、次第にやつれてきていた。
人と話すこともなく、ひっそりとした静寂だけがあった。
心がだんだんと麻痺していった。心を閉ざし、鍵をかけていく。そんな作業を作り上げた人物を思いだした。
(そうだ。ぼくが閉じ込められているのは、あの女のせいだ)
継母であるロザーヌ―ー。
(あの女のせいで、ぼくたち兄弟はバラバラにされた。きっとみんな辛い目にあっているだろう。あの日の、あの女の眼は忘れない。幼かったため何もできなかった……)
アルダークはの思いは鬱屈していた。そんなときに、
(そんな女に生きる資格はない。殺してしまえ、復讐してやるんだ。この恨みを思い知るがいい)
心に、そんな言葉が浮かんできた。
(復讐……。そうだ、あんな女。殺してしまえばいいんだ)
アルダークの中に、次第に悪の心が芽生え始めていた。
このことは、もっともリュゼが危惧することであった。
「復讐しようと思わないでくださいね」
別れる前日、病気の身でありながらも伝えたかった言葉……。
しかし、今のアルダークにリュゼの必死な願いは届かなくなってしまっていた。
そのころから、アルダークにの心は黒く染まっていった。
憎しみ、恨み、相手(継母)をどう苦しめ、殺すべきか……。助言も、戒めも、優しさもない。……静寂の時間。思いは暗く、堕ちるところまで堕ちていく……。そんな感じであった。
そして、アルダークが十五歳になったとき、家政婦が数年ぶりに新聞の切り取ったものを入れていた。そのときの記事が、
「ウィシュナー伯爵、死亡」
だったのである。
(生来、病弱であられた。父上……。ついに会えないまま……)
しかし、記事は、伯爵夫人であるロザーヌが、そのとき外出しており、付き添っていなかったことまで報じていたのだ。
アルダークは、身体中の血液が煮えたぎるように感じた。
憎しみ、恨み、殺意があふれ出してくる。
(あの女、許さない。いつか、いつか、殺してやる)
そしてその思いは日々増大していき、今に至ったのである。
七年間の完全幽閉により、アルダークは脚力が弱くなっていた。
なんとか歩くことはできるが、走る場所がないこともあったが、走ることが出来なかった。
長時間の立ち居も難しく、書斎の椅子に座っていることが多かった。そしてさらに、昼間、特に夏の直射日光を窓越しにさえ見ることが困難になっていった。
部屋のカーテンは閉めっぱなし、書斎の窓は書架の陰になってまともにみれない。
(普通に暮らしていれば、こんな身体にはならなかったのに……)
その思いも、継母への殺意となった。
今や完全に、その考えにとらわれていた。
あの日、心に浮かんだ「復讐してやる」の言葉。
心に浮かんだあの言葉を、アルダークは自分の考えだと信じ込んだ。
だが、それは悪魔、もしくは悪霊と呼ばれるものたちの巧妙なささやきだった。
アルダークは、日が経つにつれ、表情は暗く、湖水のような青い瞳に光はなく、よどんでいるようになっていった。
昔の彼を知っている人が見れば、変わり様に愕然とするに違いない。
昔の彼―ー。
しかし、神はすでにアルダークに「光の道」を用意されていた。
そう、彼に「神様を信じること」、「神様に感謝すること」を教えてくれた人物。
その人物にゆかりのものが、もうすぐアルダークの前に現れるのである。
【第六章】 再会
アルダークが相変わらずの生活をしているとき、家政婦からメモを貰った。
(いつもは新聞の切れ端なのに)
メモにはこう書かれていた。
「結婚します。辞表を出しました。今日の夜で終わりです。新任は明日の昼に来るそうです。―ールティシア―ー」
(へえ、いい身分だな。それにしてもあの家政婦、ルティシアって名前だっのか)
七年も同じ家にいながら家政婦の名前も知らなかったわけである。それに、家政婦も自己紹介はしなかった。
(それにしても新任とは……。誰が来ても同じだ。また名乗りもしないやつなんだろう。どっちにしろぼくには関係のないことだ)
家政婦は、その夜、門番が用意した馬車で去って行った。
翌日の早朝、一人の少女が別荘に向かっていた。
歳は十五歳前後。新任の家政婦として派遣されたのである。
昨夜、前任の家政婦が会いに来て、引継ぎを受けた。
「あの……ルティシアさん、『明日の昼食から』って聞きましたが、明日の朝は、どうされるのですか?」
「いらないのではなくて? ほかの食事だって、まともに召し上がったことがないし、朝は全然口にされないから。まったく、なにさまのつもりかしら?」
悪口を並べて、ルティシアは去って行った。 ―ーもう関わりたくない、というふうに。
少女は、横にいる母親に、
「お母さん、昼からだったけど、明日の早朝に行こうと思うの」
と、言った。
「そうね。話を聞くと、食事もろくにされていないようですし……。アルダーク様の身が心配です。わたしの方がお願いするわ。早く行ってあげて。そして、アルダーク様を、あなたにお任せするわ」
母親も同意した。
かくして、少女は別荘を目指し、目的地に着いたのは午前八時であった。
同じころ、アルダークは書斎の椅子で眠っていた。
昨夜はベッドまで行かず、そのままだった。起きれず、そのままずっと眠っていた。
「アルダーク様。大丈夫ですか?」
ふいに少女の声が聞こえ、驚いて目を覚ました。
(天使?)
一瞬、そう思った。
栗色の髪を三つ編みにしたメイド姿の少女には、羽根も輪もない。
リュゼのおもかげを宿す少女のエメラルドグリーンの瞳が濡れている。
(新しい家政婦か。……でも、なんてリュゼに似て……)
アルダークの心に、リュゼの名前を思い出させるほど、少女はリュゼによく似ている。
「もしや、きみは……」
アルダークが口を開いたとき、
「アルダーク様。覚えていてくださったんですね。わたし、ミリアムです」
少女が名乗った。
「ミリアム……。―ーミリー、か……?」
「はい!」
その少女こそ、リュゼの娘、ミリーだった。
だが、アルダークは唇をぎゅっと結んだ。
「……」
「アルダーク様……?」
アルダークは眉をひそめる。顔向けができない。
「申し訳ないが、きみに会わせる顔がない」
彼は顔を伏せた。
「アルダーク様、どうしてですか?」
「ぼくは変わった。以前、きみと遊んでいたころのアルダークは、どこにもいないんだ!」
確かに、アルダークの姿を見て、ミリーは思った。
美しい面差しは変わらないが、やつれ、青い瞳は光がなく澱んでいるように見える。そして全体的に暗い。
「アルダーク……様。どうしてそんなことに……」
「ミリーになにがわかるんだっ!」
ミリーに対して、アルダークの声が激しくなっているが、押えられない気持ちが先走り、止められない。
「ぼくはこの七年間、人の声も聞かずに過ごしてきた。家政婦が動く機械的な音だけがある以外は、静寂の世界だった。わかるわけがない。どれほど苦しかったか。……全部、全部、あの女が……っ」
「アルダーク様……」
「だいたい、どうして? どうして今になって、きみなんだ?」
アルダークの肩が震えている。
「こんな、こんな闇に墜ちる前なら……。前、な……ら……っ」
「アルダーク様」
「ミリー」
「はい」
「出て行ってくれないか? この部屋(書斎)から」
「でも……」
「用があれば呼ぶ」
「でも、アルダークさま……」
「出て行ってくれ!」
「!」
「……頼む」
アルダークは、決してミリーの顔を見ようとはしなかった。
「分かりました。……では、失礼します」
ドアが開いて、閉まる音がした。
鍵を掛ける音はしなかった。
(鍵の音がしないのも……七年ぶりか)
ミリーに会ったことで、忘れていた楽しい時期が思い出された。
しかし、長い年月の間で、着実に育っていた闇を払拭するのは不可能である。
心の中で、光と闇が交錯し、アルダークを悩ませた。
その重圧で、過呼吸の発作を起こす。椅子から立てないほどの激しい発作だった。
さっきミリーを出て行かせたことを、アルダークは悔いた。
だが、今までだってひとりで対処していたし、しばらくすれば治まるので、『どうにかなる』とも思っていた。
そのとき、隣室のドアが開く音がした。
ミリーが、もう一度話をしようと、戻ってきたのだ。
ミリーはアルダークの異変に気付いた。
「アルダーク様、どうしました? 苦しいのですか?」
「ミ……リー……。大……丈夫……だ。……いつもの、こと……、だ、から、すぐ……良くな……るから……」
「とにかくベッドへ。歩けます?」
「……ああ」
ミリーの肩を借りて、よろよろと立ち上がりベッドへ行って横になった。
ミリーが優しく背中をさすっている。
それで楽になるわけではないが、ミリーの優しさにホッとするものを感じていた。
しばらくすると、呼吸が楽になって来た。
「ミリー……。もう平気だから……」
「でも、まだ苦しそう……。本当に、良くなられたのですか?」
「ずいぶんと楽になったよ。でも……ミリーには会わせる顔がない」
「そんな……。わたしはアルダーク様に会えるのを楽しみにしていましたのに……」
「だから、さっきも言ったように、昔のぼくではない。心を闇に染めてしまい、堕ちるところまで堕ちてしまった。今更、どんな顔をしてきみに会ったらいい? 顔向けなんてできない」
アルダークは、ミリーに背を向けて座った。
「そんな悲しいことを仰らないで。わたしは、アルダーク様がいくら変わられてもあなたの傍にいます。母とも約束しました」
人の心の温かさ。人の温もりが、アルダークの心に染みていく。
少しの沈黙の後、アルダークが口を開いた。
「憎しみが止まらない。憎しみが止まらない。憎しみが止まらない……んだっ。ミリー」
「アルダーク様」
突然アルダークの背中が重くなった。
ミリーが後ろから抱き着いたのだ。
「……」
「アルダーク様。アルダーク様が、どれだけそんなことを仰られても、ミリーはお傍にいます。わたしはずっと、ずっとお傍にいます」
「ミリー……」
アルダークの背中から力が抜けて行った。
「……変わってないな。ミリーは」
「え?」
「初対面のときも、再会のときも、第一声は『大丈夫?』だった。ミリーは、いつだってぼくのことを気に掛けてくれた。こんなぼくなんかのことを……。……ありがとう」
ミリーの瞳から涙が流れ落ちた。
ミリーが涙を拭こうと手を離した。
そのとき、アルダークがミリーの方に向き直った。
「ミリー、ごめん。……色々と。……かなり、ひどいことを言って……」
ミリーの瞳からぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちる。
「そんな。……気にしていませんから」
アルダークは、決まり悪そうにしている。
「あ、わたし、大事なことを聞き忘れて、戻ってきたんですが……」
ミリーが思い出したように声を上げた。
「アルダーク様、朝食、どうされます?」
「え……? 朝? ここ数年は食べてないけど、用意しているの?」
「いいえ、これから……」
「なら、いいよ。いらない」
「でも、身体に毒ですよ」
「でも、発作が起きた後だし、食欲は……」
「じゃあ、ミルクだけでも持ってきますね」
ミリーは言い終わる前に立ちあがり、階下へ駆けて行った。
「ミリー」
ほどなくしてミルクを入れたカップを持って現れる。アルダークは、持ってきたミルクを全部飲み干し、顔を上げ、そして言った。
「ミリー。何かすることがある? 掃除も洗濯も休んでいいから。久しぶりに話がしたい」
ミリーは、ベッド脇に椅子を持ってきて座った。
「ミリー、きみが来るなんて思わなかった」
アルダークの声は穏やかになっていた。
「てっきり、挨拶もしない機械みたいな家政婦が来ると思っていた。ミリー、七年ぶりだね。大きくなったな」
「アルダーク様も、以前よりずっと背が伸びて、お声も少し低くなって……。大人になられたな……って、思いました」
「リュゼは元気?」
「今は、自宅で療養中です。最近は調子も良くなって、少しなら外出もできるようになっています」
「良かった。大丈夫なんだな」
「はい」
「でも、ひとつ、不満がある」
「えっ? 一体なにが……」
「きみのその口調だよ。……敬語は使わないでくれ」
「でも、わたしは一介の使用人ですし、身分も低くて……。第一、失礼です」
「そんなの……。使用人とか、身分とか関係ない。以前みたいに、普通の言葉で話してほしいんだ」
「アルダーク様、本当にいいのですか」
「ああ。ミリーに敬語で話されると他人行儀な気がして……」
「良かった。実をいうと、敬語を改めて使うのをためらっていたの……。今更って思われるかなって……」
「うん、そうやって話すほうが『ミリー』って感じがする」
「アルダーク様ったら」
アルダークの顔に笑みが浮かぶ。
七年も笑ったことがなかったのに、素直に笑顔になれたのは、ミリーのおかげである。
「ミリー、変なことをいうって思うだろうけど、聞いてくれる?」
「え? 何?」
「さっき、目が覚めたとき、ミリーが一瞬、天使に見えたんだ」
「え? 天使って……。そんな、畏れ多い」
「いや、本当にそう見えた。実は、はじめてきみを見たときも、天使だと思った」
「アルダーク様」
「リュゼとミリーが居たときのことを思い出したんだ。何重にも心に鍵をかけたはずなのに、ミリーに会って鍵が外れたみたいだ。こんな闇に染まったぼくに、光が一条差し込んだ気がした……。
たとえ、羽根や輪がなくても、きみは天使だ。ぼくは、リュゼとミリーに何度も救ってもらった。何度も『ありがとう』って言いたい」
「アルダーク様。そんな風に言われると、わたし、どうしたらいいか……」
ミリーは戸惑っていた。
そのミリーの様子を見ていたアルダークは、片手でミリーを抱き寄せた。
「きゃっ」
ミリーが、驚いて声を上げる。
「急に変なことを言ってごめん。でも、ぼくは救われたんだ。昔も今も」
「アルダーク……様」
ミリーは、しばらくの間、このままでいたいと思った。
アルダークが抱き寄せたのは、恋愛感情ではない。リュゼがアルダークを抱きしめたのと同じ感情なのだろう。
ミリーも承知の上だった。だが、アルダークの腕の中で、ミリーは安心感を覚えていた。
ただ、アルダークはいつまでもミリーを離さなかった。
ミリーが顔をのぞくと、アルダークは眠り始めている。
(無理もないわ。発作の後なのに、ずっと話していたのだから。ゆっくりお休みくださいね)
ミリーは、アルダークをベッドに寝かせ、布団を掛けた。
そして、階下の台所へ降りていき、昼食の準備を始めた。
アルダークが目覚めたのは、昼前だった。
(今、何時なんだろう。そういえば、ミリーがいたような気がするが……。夢でも見ていたのか)
再会して、また眠ってしまったので、夢だったのか本当のことだったのか、区別がつかなかった。
だがすぐに分かった。
ミリーが、昼食の用意を終えて部屋に入ってきたのである。
「アルダーク様、お昼ご飯です」
「ありがとう。頂くよ」
「下に来ますか? 昔みたいに」
「ミリー、ごめん。……数年間はずっと閉じ込められていたから、足が弱くなっているんだ。歩くのは大丈夫だけど……。階下まで行けるかどうか……。走ることも跳躍も、たぶん出来ない。長時間立つことすら辛いんだ」
アルダークの言葉に、ミリーは、また泣いてしまった。
「ミリー。別に泣かなくても……」
「だって、アルダーク様が、そんな辛い目に会っているなんて思わなくて……。どんなに苦しい思いをして、生活していたのか……。わたし、わかってなくて……」
「だからって、泣かなくていいから。……昔は笑顔が多かったのに。……泣き虫になったな」
「だって、だって……」
「ミリー、もうわかったから……。早くしないと食事が覚めてしまうのでは……?」
「あっ、そうだわ。お昼、お持ちしますね」
「そうだ、ミリーも一緒にここで食べない?」
「えっ、でも……?」
「一人で食べるより、二人の方が楽しいと思う」
「では、お持ちしますね」
ミリーは、階下の台所に、料理を取りに行った。
(ミリーがきたため、復讐する思いが薄れるおそれがある。……だからといって、ミリーを遠ざけることはしたくないし、出来ない)
ほどなくして、ミリーが昼食をもってきた。
長年、少食のこともあって、沢山は食べることはできなかったが、料理はいままでの数倍も美味しかった。
ミリーと再会したことで、アルダークは光を見出した。
しかし、その光の対極にある復讐を、心に誓っている。
それは変わらない。
それほどまでに、ロザーヌへの恨みは大きかったのである。
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『悔恨の果てに』2 了
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